こんにちは。

第7回目の『tori研』です。

今回は、文藝賞を研究してみたいと思います。

文藝賞は、河出書房新社さんが主催されている文学賞で、受賞するとほぼ単行本化されているようです。受賞しても必ずしも単行本化されるとは限らない文學界新人賞などに比べて、とても有り難い賞でもあります。(文學界には文學界の方針があるのでしょうし、単行本化されることだけが全てでもないのかもしれません。二作目、三作目と誌上に発表させて、成長を見守るというスタンスもあるのかもしれません)

今回は、第43回~第48(2006年~2011年)の、文藝賞をまとめてみました。

以下が受賞作の一覧です。

第43回(2006年)

「公園」荻世いをら 

(→読書感想はこちら)

 「ヘンリエッタ」中山咲

(→読書感想はこちら)

第44回

(2007年)

「肝心の子供」磯崎憲一郎

(→読書感想はこちら)

「青色讃歌」丹下健太

(→読書感想はこちら)

第45回

(2008年)

「けちゃっぷ」喜多ふあり

(→読書感想はこちら)

「おひるのたびにさようなら」安戸悠太

(→読書感想はこちら)

第46回

(2009年)

「犬はいつも足元にいて」大森兄弟

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「ボーダー&レス」藤代泉

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第47回(2010年) 該当作なし
第48回(2011年)

「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」

今村友紀

(→読書感想はこちら)

【第43回】

「公園」(荻世いをら)「ヘンリエッタ」(中山咲)のダブル受賞。

どちらも、人間ドラマを描きながら、主役は人間以外のもの――「公園」と「家」です(それでも結局は人間を描くことになるのですが)。

「公園」という作品は、非常にテンポがよく、歯切れも良く、場面転換が多くて転換の速度も早いのが特徴で、一言で言うと、勢いの強い筆さばきです。

繊細なものを繊細なタッチで描くのではなく、よりダイナミックに掴みとりながら、世界そのものを俯瞰する位置にまで駆けあがって行こうとする気配がします。

そこに差し挟まれてくるエピソードはどこか戯画的で、捉えどころもない内容ばかりです。

結局、作者がなにを言いたいのか分かりにくいのですが、強いて言えばそこに漂っている時代の暴力性や、不条理、虚無感のようなもの、そしてその世界で生きている人間の哀愁、でしょうか。決して、全てを悲観している訳でもなくて、むしろ世界をありのままに受け入れようとする姿勢が見えます。

主人公は、元々日本の「公園」にいたのですが、色々あったすえ、ニューヨークまで行って、また戻ってきます。時間も距離も関係なく、主人公は公園を散歩するように、世界を歩いているのです。

独特な馬鹿々々しさを、敢えて意識的に積み上げてきた、という印象の作品です。

「ヘンリエッタ」もまた、非常に独特な世界観を持っている作品で、藤沢周さんは、選評でこの世界観を、”ロリータ系かつ白いゴシック系の館を箱庭的に作り上げた作品”と評しています。

住んでいる家に「ヘンリエッタ」という名前が付いていて、主人公と同居している二人の女たちが、どちらも出かける時と帰宅時に「ヘンリエッタ」にわざわざ「行ってきます」「ただいま」の挨拶をする、という場面だけでも、十分この世界観は伝わってきます。

「少女趣味的」と言ってもいいくらいの世界観なので、そういうのが苦手な人にはちょっと嫌煙されそうな趣もしますが、ただし、細糸を編むように丹念に織られた物語世界は、繊細な印象とは裏腹に、確固とした基盤を持っていて侮れません。

語感から聴覚に訴えてくる文章感覚も、評価の対象になりました。(例えば、「カチャリ」「カタリ」「コツリ」などという擬音で表現される、”見えない牛乳屋さん”の姿だったり)

聴覚や想像力に重きを置いているので、状況や風景描写があえて少ないのも特徴で、登場人物の紹介の仕方も、想像の余地を存分に与える描写になっていて、間接的な表現を積み重ねていくことによって、それぞれの個性(内面)を作り上げていいる、という印象を受けました。

何よりも、「おとぎ話のような空気感」。これを最後まで貫いて、丁寧に描ききった所に、最大の意味を持つ作品だと思います。

 

質感もテイストも(時間や距離の感覚すら)全く違う二つの作品ですが、どちらも「戯画的」(もしくは「漫画的」)な感覚がします。これは漫画社会である現在日本の文学というより、もはや潜在化された意識の総体が「戯画的」(「漫画的」)になりつつある表れではないかと、密かに想像しています。

漫画が小説を真似るのではなく、小説が漫画の世界観と繋がろうとしている。もしくは漫画的要素を吸収し、そのうち同化しようとしている。そんな一つの流れというか意識(あるいは無意識)みたいなものが、この国の小説を書いたり読んだり考えたりしている人たちの間で、けっこう着実に芽吹いているのではないか、と私個人は感じているのですが……。

【第44回】

「肝心の子供」(磯崎憲一郎)は、ブッダとその子とまたその子。つまりブッダ三世代の物語りです。

非常に文章力が高くて、「大人な小説」という印象を持ったのですが、ブッダのことを描きながら、仏教的な宗教感はあまり伝わってこない気がしました。ブッダが悟りを開く場面など、ちゃんと描かれているのに、なんとなく小説の小道具的に使われているように思われてならないのです。そこで、おそらく作者の興味は、仏教の教えそのものにはないんだろうな、と感じました。

選考委員の高橋源一郎さんは、”核心と思える部分を指し示すことができなかった”と述べられていますが、この意見はよく分かりました。ものすごい小説だという印象なのに、掴みどころがないという感覚がしてしまうのです。

この作品を、選考委員の中でもっとも強く評価して「素晴らしい身体性を持ったボルヘス」と称した保坂和志さんは、すぐれた小説は解釈などというつまらない行為のはるか上空を吹き抜ける突風なのだ”と言われていて、そんなものなのかもしれませんが……。

物語りが現代日本社会とは全く隔絶していて、だからこそ、徹底した「ブッダ」の世界観が確立していて(だから、最近の選考委員たちをうんざりさせている新人賞応募者の超定番アイテムーーコンビニインターネットーーが登場することもなく)文体そのものからも小説の世界がっちりと築かれていてます。まったく隙の無い作品だと思いました。

さて、同時受賞したもう一方の作品「青色讃歌」(丹下健太)ですが、こちらは打って変わって現代的です。

主人公は、大学は卒業したものの就職せずにフリーター生活者を続けている二十代後半の男。就活中なのですが、どうも幸先は芳しくない感じです。一般的に見て「ダメな男」の類だと言えるのでしょうが、小説には悲壮感はなく、むしろ妙に楽し気ですらあります。

どこか可笑しさや愛嬌を含んだ作品で、割とありがちな内容であるにも関わらず受賞した要因は、「既視感があるにもかかわらずオンリーなテイスト」だと選考委員たちを納得させた結果だと思います。

高橋源一郎さんは、”乾いたユーモア”とそれを評しましたが、内容以上に作家の持ち味が評価された、と言ってもいいのではないでしょうか。そこには大きく「文体」が意味を持ってくるのだと思うのですが、「文体+作者の姿勢(スタンス)」が大事なんだな、とこの作品を読んで痛感しました。

もしかすると、「肝心の子供」が現代的な感覚を一切排している作品だったからこそ、何らかの調整の意味もあって、この現代的で破綻のない作品が同時に選ばれたのかな、と穿ったようなことも考えなくはないのですが……。(考えすぎですよね(汗))

ちなみに、「肝心の子供」は、芥川賞の候補にもなりましたし、主催者としても「期待の新人」という扱いではなかったかな、と推測します。

 

【第45回】

「けちゃっぷ」(喜多ふあり)は、SNSの書き込みをそのまま文体に混ぜ込んで小説化した意欲作です。地の文と書き込みの文章が混在一体化していて、意識的に(違いないと思われますが)そういう文面にまで小説全体の文体や世界観を引き下げていて、ともすると陳腐で低俗な言葉の羅列が独白調で続きます。

ある意味、日本語で書かれるべき小説の限界に挑んでいるとも言えて、とても面白い試みだと思いました。非常に狙った(企みのある)作品として、選考委員たちの評価を勝ち得たようです。

一方、「おひるのたびにさようなら」(安戸悠太)も、企みを買われた作品でした。

一つのドラマ(昼ドラ)を、「ドラマ」「ドラマを観た人間」「ドラマを演じている人間」、という三つの世界パターンで描き、それを入れ子細工に組み立てて構成しているのですが、ドラマを観ている会社員(主人公)がいる世界が……

(あ、すみません。危うく落ちまで書いてしまいそうでした! もう少し詳細な解説は、読書感想を覗いてみてください(落ちは書いていませんが)。あしからず)

選考委員の斎藤美奈子さんは、”メディアの特性を逆手にとった、きわめてコンセプチュアルな作品”と評していますが、狙いすぎだという気がするくらいに、狙った作品です。

「新人賞では、これくらい企みを入れ込め」ということなのかもしれませんが、それを戦法にしてしまうのは、作家になった後々のことを考えたら、必ずしも「そうするべき」とは言いにくいです。

【第46回】

犬はいつも足元にいて」(大森兄弟)は、一つの作品を二人で書く、という発想自体が斬新な気がしますが、作品そのものはどこかに小川洋子さんを思わせるような、堅実な印象でした。

人間の内面を深く掘り下げていて、ありきたりではない人間像(それでいてどこにでもいそうな少年)を創り上げています。非常に考え込まれた構成と展開で、「犬」「公園」が、小説の中で象徴的な記号として上手く配置されています。

こういうことが、二人の人間の脳みそ(つまり二つの思考回路とそこから派生してくる諸々の感性、深層意識)から生み出されてきて一つに纏まってしまえるんだ、という驚きが、なによりも選考委員の意識下には絶対にあったと思います。

選考委員の意表を突くことが、新人の文学賞を受賞するには一番の戦法だと思っている私個人から見ても、これは確かに意表を突いていると思えます。

もちろん、ユニットではなく、単体で書かれていたとしても、受賞したのに違いないでしょうが。

前回の受賞作が二作とも企みに富んだイレギュラー的作風だったのに比べて、非常に正統派な小説だという印象を受けました。ただし、決して退屈ではなくて、主人公の少年の視点や、その視点を捉える作者(たち)自身の視点の独自性が、常に新しい境地を開いていて、読んでいてハッとさせられました。

「犬と少年」というありふれたような組み合わせでも、「視点」次第で、ありふれないものになり得るのだという、お手本のような作品だと思います。

「ボーダー&レス」(藤代泉)は、「日本人の視点から見た在日問題」を取り扱っていますが、私はよく出来た「今時の会社員の青春グラフィティ」という感覚で読みました。

「女性が書いた男性」だからなのか、主人公の無垢で子供っぽいキャラクターが、作品にほんわりした透明感を持たせていて、「在日」という言葉に逃げ腰な日本人の感覚(個人的には差別意識は無いにも関わらず、社会全体では差別意識が存在している現実を知っていて、それでも相手との友情を壊したくないので、問題そのものから目を逸らそうとする)が、とてもリアルに描かれています。

「在日」の問題を扱った作品としては、最近では「ジニのパズル」群像新人賞を受賞して芥川賞候補にもなりましたが、多くの日本人の作家が実は気にしていて、けれど中々正面切って書きだせないテーマでもあると思うので、そこに堂々と踏み入ったということは、それだけでも価値があるのだと思います。

「ボーダー」(境界)というワードを、単に在日の問題だけに絞らずに、日常に点在する様々な境界線――「個と個」、延いては「個と世界」の関係にまで触れようとしている感じがして、その研ぎ澄ませ方がどこかぎこちないのもいいと思いました。

【第47回】

該当作なし、です。

この年の受賞作に決まった作品が、作品の根幹を成す発想そのものや設定が、インターネット上のサイトからの拝借だったことが判明して、受賞が取り消しになったようです。

選評では各選考委員とも、遺憾の意を述べられ、「引用」と「盗作」の違い、書く上での心構えについて、など言及されている方もいました。どこまでが「引用」でどこからが「盗作」になるのかという議論は、実際微妙なものになると難しいとは思うのですが、常に意識して「盗作」にならないように(簡単に手に入るインターネットの情報元については特に)注意が必要ですね。

 

【第48回】

「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」(今村友紀)は、冒頭一行目からいきなり稲妻が走り爆音がして、平和な世界が崩れ去って理不尽で暴力的であり得ない世界に突き落とされます。

漫画のような世界観が全編を覆っていて、とても小説を読んでいるような気がしませんでした(それだけに、「いったい、何を読まされているんだろう?」という新しさはありました)。

選考委員の角田光代さんは、”描写力が追い付いていないと感じた。ゆえに、小説でなくもっとふさわしい媒体、映画なり漫画なりの視覚的媒体で描いたほうが向いているのではないか”と選評で述べられていますが、確かにそんな気もしてしまう作品です。

斎藤美奈子さんは、”この小説がよいのは合理的な説明を拒否している点である”と言われていて、つまりあり得ない不条理な状況は克明に描いても、その裏側にある原因や理屈は、一切説明しない。これこそが、この作品の勝因だったようです。

説明しないからこそ、余計に恐怖は増幅され、想像力は広がります。小説はあくまでも、主人公である少女の視点で一貫して描かれ、ありがちな神の目的手法も、レンズを切り替えるような視点変換もなく、だから余計な情報は与えられず、どこまでも少女が知り得る知識と情報だけで組み上げられていきます。

リアリティのない世界が、少女の視覚聴覚など全ての感覚を研ぎ澄ますことで、リアリティを持つようになる。誰もこれまで経験しえなかった世界が出現してくる面白さは、この小説の強みだと思います。

少し残念なのは、(角田光代さんが指摘されたように)描写力が十分に追い付いていないと感じてしまうのと、前半のぶっ飛び感に比べて、後半の展開が精彩を失くしていくことです。合理的な説明を拒否した作者が、どこかでは物語としての合理性を模索してしまったからではないかと、想像します。もっと、分けのわからないラストでも、私はその方が面白かったろうし、世界も広がっていたろうな、と思うんですが……。

第43回の時に個人的に「戯画的」という感覚を持ったことを述べましたが、この作品こそストレートに「戯画的だな」と感じた作品はありません。

一見、ライトノベルのようですが、ライトノベルともどこか違う。文学なのかと言われても、よく分からない気がするのですが、「漫画と文学の中間」と言えば、何となく頷ける気がします。小説の質感そのものを問いただしてきたような、不思議な作品だと思います。

 

【まとめ】

まとめ、と言っても、何をどうまとめるべきなのか、ここまで書いてきてまだよく分かっていません……(汗)

文藝賞が求めている「理想の新人作家像」なるものが明確に掴めたらいいと思うのですが、そんなものは初めから無いに等しいのかもしれません。

言えることがあるとすれば、 「既視感はさけろ!!」

……ですかね。

「独自性」。これに尽きるんだと思います。

けれど、選考委員の方々がどうやら既視感だらけになっている(らしい)コンビニやネットネタなんかは避けろ、とかいう話でもありません。

海外作家の作品とか(古典でも現代ものでも)、文学に一見関係ないジャンルの本を読み漁るとか、既視感から逃げる努力は色々あると思うんですが、プロの作家さんは見識も広いし、おまけに深いですからね。そこをどう切り崩して自分の牙城まで連れ込むか、頭が痛い所です。

ただ、「既視感を避けろ」というのは、なにも書こうとする内容そのものではなくて、たぶんそこに行きつく思考回路そのものだと思うんですよね。だから、私個人の意見を、今回の括りだけで纏めさせてもらうと、

「思考回路」を徹底的に検証しろ!

……ですかね(汗汗汗)

誰かが既に書いていて、あるいは現在進行形や未来進行形で書かれているかもしれない内容でも、「対自分」との関係においては、100パーセント、誰でもが「独自性」を持てるわけで、「文体」にしても、より切羽詰まった視点にまで持ってこれたら、「文体」そのものから「独自性」が出現してくるんじゃないかと……世迷言のように、そんなことを考えたりしている所です。

 

……と、こんなまとめでどれだけ参考になったのでしょうか……:;(∩´﹏`∩);:

 

これに懲りず、文藝賞に関しては次回も引き続き研究をしてみたいと思いますので、機会があれば、また覗きに来てみてください(;・∀・)

またお目にかかれる日に向けて、日夜読書と研究に励みます。『tori研』以外でも、読書感想なども投稿していますので、ご興味があれば、そちらも覗いてみてください。

では、また(@^^)/~~~

 

※上記記事を書くにあたって、河出書房新社様出版の雑誌『文藝』2006年冬号、2007年冬号、2008年冬号、2009年冬号、2010年冬号、2011年冬号の文藝賞における選評、および掲載された受賞作等を参考にさせて頂きました。