犬はいつも足元にいて (河出文庫)

「犬はいつも足元にいて」

大森兄弟著(第46回文藝賞受賞作)

(河出書房新社)

 

犬が「僕」の家に来たのは、小学校四年生の時。酔っぱらって真夜中に帰宅した父が持ち帰った子犬だった。

翌日から、犬は僕が世話するようになった。けれど、あまりにも従順すぎる犬に、僕は利口さよりも「薄気味悪さ」を感じていた。犬は、常に僕の意志をくみ取ろうとして、熱心に観察してくるのだ。

やがて、中学生になった僕は、クラスでは地味な四人組のグループに入り、そのうちの二人までが不登校になったので、グループは僕と「サダ」の二人きりになった。

僕は、「サダ」のことが好きだったわけでなかったが、学校生活を生きのびるために、仕方なく一緒に過ごしていた。一方がいなければもう一方は、給食を一人で食べなければならないことになるので、暗黙の了解で僕たちは一日も学校を休むことがなかった。

「サダ」は少し変わっていて、異様にグループの「団結」にこだわる傾向があり、不登校になった二人のことも気にしていた。

そんなある日、僕が犬を飼っていることを「サダ」が知ると、急に瞳を輝かせたのだった。

翌朝、僕が犬を散歩させていると、まるで偶然を装うかのように「サダ」が現れ、話しかけてくる。それから、定期的に「サダ」は朝の散歩に顔を出し、いつの間にか毎朝、偶然を装って現れるようになった。

そんなある朝、事件は起こる。

いつものように犬の散歩に現れた「サダ」が、中々別れようとせず、何故か家まで付いてこようとして、家の前に来ても、一向に帰ろうとしない。

「サダ」が、二人の「団結」ということを前々から口にしていたことから、今回もそれが関係しているのだと察した僕は、何となく鬱陶しく思っていると、そこで突然、犬が「サダ」に噛みついたのだった。

ずっと僕の顔色ばかり見てきた犬は、僕の内心を察知して、行動を起こしたようなのだが……

この後、物語は「僕」を取り囲む世界の破滅めいた展開へと傾いてき、それと同時に「公園」という舞台が描かれていきます。

公園の一角に、犬が強烈に惹きつけられてしまう場所があって、そこに死肉(何の生き物か不明)が埋まっている、という設定なのですが、そこに戦争体験者の老人(ナンバーセブン)が出てきて、物語がぐっと怪しくうねりはじめます。

ただの公園がフィリピンのジャングルと化してしまいそうになるあたりは、少し筆が滑り過ぎた感がありますが、全体的に抑制が効いた、バランスの良い作品だと思いました。

芥川賞候補作にもなった本作ですが、兄弟ユニットで書いた作品であることが、何らかのマイナス要因として見られた面もあるようです。

私個人としては、人間の心の多様性に誠実で、過剰にも単調にもならないタッチで少年の内面を描いていて、好感を持ちました。

”「犬」がなついて忠誠を見せれば、少年ならふつうは愛情を持つもの”などという決めつけ的な動物愛など無視して、冷静な眼差しを持ち続けますし、一方的な「友情」を押し付けてくるウザったい友人「サダ」に対しても、冷めた感情ではありながら、それでいてどこか捨てに捨てられぬ「友情」を仕方なく持ち歩いているもたつき感なども妙に人間的で、リアルな少年の息遣いを感じられました。

家族の崩壊(破滅)というラストのうねりと、公園の「死臭感」が、小説内を立ち昇るように絡まってきて、日常にも非日常にも転びそうなラストは、結局どこにも辿り着いてはないのですが、決着も解釈も読者の想像に委ねるという意味で、とても良い終わり方だったと思います。

選考委員の保坂和志さんは、

世界や人間の負の側面を書かなければ小説にならないという間違った小説観(『文藝』2009年冬号 文藝賞選評より)

としながらも、作者が世界と人間(犬の内面も)をきちんと見て捉えていることを評価しています。

相手が見えるということは、世界と人間に対する肯定の基盤であり、だから主人公もサダも母もサダのの母も父もナンバーセブンも、うとましいのに嫌いになれない、どころか好きになってしまう。この距離感は絶妙である――(同上より)

としています。

藤沢周さんは、本作の本当の主人公は「僕」ではなく公園の「肉」なのだとして、

どうにも言葉や理性では手に負えぬ深層意識、あるいは阿頼耶識といって良いだろう、そんな意味不明の場を主人公にしたのである。(同上より)

と、言われています。

その上で、当作品が二人の人間の合作で書かれたことに、驚いたとも述べられています。

確かに、二人いれば二様の深層意識が存在して、どこかでかみ合わない流れが生まれそうですが、本作は完全に一つの調和を見せていて、なんの違和感もありません。

斎藤美奈子さんは、

兄弟とはいえユニットの共同作業からこういう作品が生まれるのだとしたら、「文学は個人の自我の発露である」という旧来の文学観は音を立てて崩れ去る。(同上より)

と言われています。確かに、そうかもしれません。

なお、田中康夫さんは、犬が掘りおこす公園の肉片について、

が、それを腐臭として排除するのではなく、生きとし生けるものは匂いならぬ臭いを発し、腐りもする存在なのだ、との輪廻的達観を抱いて、物語は展開する。(同上より)

としています。

ここでいう「臭い」とは、もちろん肉臭だけを指すのではなく、「僕」を取り囲む世界のウザったい部分(犬を押し付けてきた父親だったり、その父親と離婚した母親だったり、学校以外の場所にまできて絡んでくる「サダ」だったり、糞の始末をさせる犬だったり……)で、そういう日常の「負」に対する愛憎を、やさしく客観的に捉えようとしている作者の眼差しがあるのだと思います。

個人的は、小川洋子さんに少し作風が似ていると感じたのですが、いかがなものでしょうか?

 

 藤代泉さんの「ボーダー&レス」が、本作品と並んで同時受賞しています。 (→読書感想はこちら)