おひるのたびにさようなら

「おひるのたびにさようなら」

安戸悠太(著)

(第45回文藝賞受賞作)

(河出書房新社)

 

会社員の「真司」は、昼休みに耳鼻咽喉科の病院に出かけて行き、待合室で昼ドラを観ては、会社の屋上で先輩社員(女)二人に今日のドラマの展開について話して聞かす、という他愛無い時間を過ごしていた。

彼は、このドラマを途中から見だしたので、ストーリーの全体を理解してなくて、しかも病院のテレビは音が聞こえにくくて、ほとんど視覚のみで展開される場面を彼は見ている。

そこで、真司が先輩二人に語るドラマの展開と、実際のドラマとの間には微妙なズレが生じる。

先輩社員二人は、会社から帰宅後にビデオ録画したものをちゃんと観るので、翌日に、前日のドラマの「正解」を、真司は聞かされることになる。

彼ら三人は、一つのドラマの展開を伝聞で聞いたことから想像したり、自分の知らない前のストーリーの空白を勝手に補ったり、それをクイズにして正解を教えたりなどして、昼休みを遊んでいるのだ。

……と、こんな他愛無いやり取りを、いい年の男女が会社の昼休みの屋上で繰り広げているという話のリアリティについてはさておき、視覚と聴覚のズレを使って、「小説」と「ドラマ」という似て非なるものの入り乱れた世界の面白さを描き出すという企てそのものは、とても面白いと思いました。

 

こういう企ては、マヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」を思い出させます。ブエノスアイレスの刑務所に収監されたゲイのモリーナが、同じ刑務所に収監された革命家のヴァレンティンに、それまで観てきた数々の映画のストーリーを語って聞かせる、という物語ですが、ここでプイグは、”映画を小説の言語に変換する”という試みをしていて、見事に成功しています。

さて、本作品に戻ります。

まず、「ドラマ」そのものの世界があって、会社員「真司」と二人の先輩社員たちと過ごす屋上の世界があって、そこにドラマを演じている役者(女優)のいるスタジオという世界がある。この三つの世界がバラバラに存在しながら「ドラマ」という一つの点で繋がっていて、物語を構成していきます。

ストーリーそのものよりも、作者はこの三つの世界が複雑に絡まっていく全体としての「造り」に拘ったのではないかと感じました。

残念なことは、たった一つのドラマを扱っているだけなのにも関わらず、そのドラマ自体の面白みが、読み手であるこちら側に伝わってこなかった、ということでした。

これは、プイグのそれが、情感豊かな深い「映画愛」なるものから立ち上がっているのに対して、こちらの作者の思い入れは、「小説を書く上での小道具の一つ」というレベルに留まってしまっているからではないか、と思えて、残念でなりません。

選考委員の藤沢周さんは、

遊び心と共に、小説や脚本などの散文への挑みが感じられた。(『文藝』2008年冬号 文藝賞選評より)

と評していて、

ー(略)― 視覚、聴覚の自由・不自由から生まれるコミュニケーションの齟齬を露にし、逆に、見えるということ、聞こえるということの悲しみが浮き上がってくるのだ。(同上より)

とも述べられていて、作者が視覚や聴覚などの感覚に敏感であることにも、一定の評価をされているようです。

田中康夫さんは、同時受賞したもう一方の作品の選評しか書かれていないので、どういう感想を持ったのか全く分かりませんが、

斎藤美奈子さんは

メディアの特性を逆手にとった、きわめてコンセプチュアルな作品である。(同上より)

とし、

保坂和志さんは、同時受賞作と一括で

受賞作の二作は、たんなる思いつきとして頭をよぎっていって、そのまま消えてしまうようなアイデアをよくぞここまで形にしたと思う。(同上より)

と評しています。

 

※同時受賞作は、「けちゃっぷ」(喜多ふあり)です。 (→読書感想はこちら)