古川真人(著)
(第48回新潮新人賞受賞作)
(第156回芥川賞候補作)
長崎の離島を主な舞台にした一族の物語で、三つの章から組み立てられています。
高齢に達して刻々と死に近づきつつある二人の姉妹(敬子と多津子)の日常を、「1」では敬子、「2」では多津子と分けて書き、最後の章(「3」)では、姉妹の兄の嫁の通夜での一幕を描いています。
作品の読みどころとしては、28歳という若い男の作者が書いたとは到底思えないような、老女たちの描写力で、書き手は完全に彼女たちになり切ったかのように、意識の内部へまで入り込んでいます。
彼女たちの頭の中では、過去の記憶や夢や現実が常に錯綜していて、それでいて奇妙に整ってもいるのですが、こうした思考なのか回想なのか追憶なのか混乱なのかもわからないことを、まるで過去と交信でもするように繰り返し温め続けているというのが、彼女たちの日常なのです。
この二人の老女の頭の中で巻き起こっていることの描写が、彼女たちの上の世代と下の世代とを繋げ、すなわち一族の長い長い歴史を物語ることになり、九州の一端で今にも忘れ去られようとしている、けれどしっかりとそこに根付き現実にあるものを、浮かび上がらせてきます。
選考委員の星野智幸さんは、
私はガルシア₌マルケスの『百年の孤独』を連想したが、中上健次の『千年の愉楽』でもおかしくない。(『新潮』2016年11月号選評より)
と書かれました。なお、続けて、
「ザ・近代文学」と呼びたくなるほど、今現在の文学の姿からは程遠く、時代遅れと感じる人もいるかもしれないが(同上より)
と前置きしながらも、
(中略)この作品は、消えつつある近代文学を模倣したのではなく、近代文学の形でしか表せない声に耳をすませ、その声の存在できる場所を作り上げたものなのだ。(同上より)
としています。
また、方言を書きとる耳の良さにも言及し、若い男の書き手であるにも関わらず、”微細な感性に至るまで老婆に成り変われるような憑依される資質”を高く評価しています。
桐野夏生さんは、
この作品の言葉の塊全体が、時間や空間を超越して、人が生きるということを表現しているかのようだ。限りない優しさに満ちた作品である。(同上より)
と、評価しています。
”言葉の塊全体”という桐野さんの表現は素晴らしくて、確かに、物語の内容それ自体よりも、言葉の存在感が熱量(もしくは意志)を持っているかのような作品なのだと思います。
もちろん、このような高評価だけで受け入れられる作品ではないことは、私も拝読しながら感じていました。
中村文則さんは、
エピソードの質を上げて欲しい。(同上より)
と、その不満を漏らします。
方言を使えば文学っぽくはなり、土地や人を丁寧に描き、力があるのはわかるが、最初と次の章はとても退屈でしんどいものがあり、最後の章も「こちら側に生き、また生きていかねばならない自分」について、それはどういうことかの問いに答えられないなら「通夜で思ったこと」の領域を超えていない。(同上より)
と、手厳しいものがありました。
確かに、私もこの作品を読み、ある種の不思議な感動を味わいながらも、作品が秘めている静かな企みの大きさに比べると、一つ一つのエピソードが、物語に集約されていく前に立ち消えていて希薄な印象があり、それが退屈すぎるのではないか、という気がしてならなかったのです。
川上未映子さんは、
この作品が目指すスケールとダイナミズムを内容が示せていると思えなかった。(同上より)
と、指摘しています。しかしながら、その後ではこうも述べられています。
わたしのこのような評価は、むしろこの作品の特徴であるかもしれないという考えを得た。(同上より)
福田和也さんは、
構成は破綻ぎりぎりの危うさをはらんでいるが、破綻を恐れず挑戦した意欲もまた評価すべきだろう。(同上より)
とのご意見。
今回、芥川賞候補になりましたが、新潮新人賞よりもさらに厳しい選考の場で、この作品がどのように評価されるのか、個人的に興味を引かれます。
星野智幸さんが、「ザ・近代文学」と称した、この時代が脱ぎ捨てようとしているものを、改めて新しい才能が新しい形で差し出してきたものを、芥川賞という現場はどう評価するのでしょうか。
結果がとても楽しみです。
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