新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

第157回芥川賞候補作品

『四時過ぎの船』

古川真人(著)

(『新潮』2017年6月号掲載)

 

 

 「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」

ノートに自分の字でそう書いてあるのを見て、吉川佐恵子は、孫のがひとりで船に乗って島に来るのだということを思い出し、船着き場まで迎えに行かねばならないと思う。

佐恵子の記憶は混乱している。娘の美穂と交わした電話での会話の記憶などをたよりに、もう一人の孫(稔の兄の)が目の手術後の通院で大変なので、稔だけ佐恵子の元にやる、ということだったのだと、ゆっくり思い出すのだった。

 

ノートは、佐恵子が付けていた日記だった。

佐恵子の死後、誰も住む者の居なくなった祖母の屋敷の片付けをするために、美穂と浩と三人で島にやって来た稔が片付けの際、このノートを見つける。

「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」は、祖母の日記の最後のページの言葉だった。稔には、その時の記憶があまりない。

人生の終盤に認知症を患い、記憶や思考の混乱した世界で生きる佐恵子と、目に障害を持った兄の介護という名目で無職の状態を続けていることに鬱屈を抱え込んでいる稔。

時間軸の違う「四時過ぎ」に、二人は近づいていく。

古川真人さんは、前作『縫わんばならん』で、第48回新潮新人賞を受賞し、デビューされました。(同作もまた、芥川賞候補となりました)

本作『四時過ぎの船』は、デビュー後第一作目の中編小説です。

前作の『縫わんばならん』は、長崎の離島を主な舞台にしたある一族の物語ですが、本作も(主要登場人物は入れ変わりますが)同じ一族の物語です。(けれど、本作は前作の続きというより、この二つの作品は、「より大きな物語の一部」と言ったほうがいいのかもしれません)

本作では、祖母と孫の視点で交互に描かれていて、それぞれの時間軸が並行しており、それぞれの「午後四時過ぎ」に向けて進んでいきます。

一方は認知症という病気のために、一方は時間を経過してしまっているために混乱してあやふやになってしまっている記憶が、時空を超えて繋がっているかのように絡まってきて、実際には過去にしか会えていない稔と佐恵子ですが、物語の最後では、本当に二人が《吉川の古か家》の玄関先で再会しているみたいでした。

前作では、四代に渡る親族関係の複雑な家系図を頭に整理することが出来なくて、だいぶ苦労しましたが、本作は(前作を読んでいたからある程度人間関係が掴めていたのかもしれませんが)その点が単純だったので、余計なことに思念を囚われなかった分、読みやすかったです。

佐恵子と並んで主人公の一人である稔が、心の鬱屈を乗り越えたかに見えるラストでしたが、そこに至るカタルシスというまでの強い心情の変化を描けていたのかどうか……という点では、少し疑問でした。

それでも、”記憶や認識のあやふやさ”という、よりリアルな人間描写が、文体や構成に上手く融合されていて、独自の世界をしっかりと確立してきている、と思いました。この題材でずっと書き続けることも出来そうではあります。

ただ前作の時点で、ほとんど確立されてしまっているものである気もして、さらにその先にあるものを望むのは、贅沢というものでしょうか。

【関連】

縫わんばならん

 

『縫わんばならん』

(→読書感想はこちら)