烏有此譚(円城塔著)
(講談社)
(第32回野間文芸新人賞受賞作)
物語は奇妙でしかも難解です。
「烏(いずくん)ぞ烏有(うゆう)に帰さんや」……”どうしてこんな話があるだろうか、いや、ない程度の意”……と、まるで読者を煙に巻くような、つまり小馬鹿にした物語であることが、題名からも察せられます。
ストーリーをストーリーとして追えない(追わせない)きらいもあるのですが、あえてここにストーリーらしきものを記すとしたら、「六畳一間に雑多な物たちに埋もれながら生きていて、やがて灰に降り積もられていくことになる男の物語」でしょうか。
これでは、一体何が言いたいのかすら不明で、本文と共に付された大量の注釈を読んでもなお、なんの手がかりも掴めそうにない。読後、自分が何を読んだのか(読まされたのか)、あるいは読書という体験さえ夢だったのではないか(まさか)と思えるほど、なにも残らない気がする。そういう意図で書かれた小説(いや小説もどき小説?)かな、と受け止めました。
全て、戯れ(それも、いたずらに物理学や数学や生物学や歴史などの知識を堆積させ、退屈しきった頭脳による戯れ)ではないでしょうか。”ふざけた作者が書いたモノ”という場所から、既に小説が始まっていて、それさえが作品なのです。
先にも述べたように、この小説には注釈があります。本文と同時進行的に(ではなく、ほどんど本文から派生しておきながら半分独立した展開をしつつ、所々で本文のことを思い出したように繋がっている)変な注釈です。本文では「作者」と名乗り、注釈では「注者」と名乗るからには同一人物ではない(という設定な)のでしょうが、どこかで融合している感のする本文と注が、奇妙な並列をなしながら展開されていきます。
読んでいる間中は、ずっと何かを考えさせられています。あるいは連想したり、妄想したり、はたまた脳内のゴミ掃除だったり、屈伸運動だったり、知識の崩壊と最構築だったり、を繰り返しやらされる感じ。つまり、ある種の煩わしさと不快感を持った作品でもある、と言えなくもない……。頭の鈍い私のような人間には、書かれていることの随所や、物語り全体を理解することは、到底できそうにないので、落ち込んだりもします。
けれど、やがて読んでいるうちに気が付いたことがあります。別に作者は(つまり注者も)何も理解させようとしているのでもないし、どこか深淵なる場所に読者を誘おうとか、さらさら思ってもいないし、全体どころかただの一文だって、理解などされてたまるか、簡単に。そういうつもりで、書いているんだ。だったら、別に理解も読破も必要ない。つまり、読まなくてもいいし、読んでもいいし、読んだらきっと幾ばくかの苦痛はあるけれど、「読んだ」ということくらいは、たぶん残る。
私個人としては、「書く」ということと「読む」ということの概念を捻じ曲げられて、そこにやや「闇」が残った気がします。
円城塔氏といえばこれまで、「難解なことを書くSF作家」という印象でしたが、本作を読んでからは、「不条理文学」の系統を持つ作家であると認識を新たにしました。
※北京原人がパンダを主食にしていたとか、本文の「虫は湧かない」に対する注で、”実際のところ、無から生まれられては困る。”とか言っている所など、面白い箇所は随所にあります。読み手がその気なら、いくらでも面白い箇所は見つけ出せるでしょう。そういう書き物でもあることを、遅らばせながら付け加えさせていただきます。
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