第166回芥川賞候補作品

『ブラックボックス』

砂川文次(著) 

(『群像』2021年8月号に掲載)

 

幾度も転職を繰り返した末、メッセンジャー(自転車便の配達員)の職につき、それなりに職務経験を重ねて平穏に暮らしているかに見える男(サクマ)。小説はサクマを主人公にした三人称一元視点です。

前半、非常にリアルなメッセンジャーの日常が、事細かに描かれます。配送時、自転車に乗るその肉体の感覚や視界に映り込む街並み、自転車のスピード感やペダルの重みまで伝わってくるような生々しさで。

コロナ禍の閉塞感漂う現代日本社会の中で、どこか置いてけぼりをくったかのような状況のサクマは、鬱々としています。

給料こそそこそこに貰えて生活は出来ていますが、正社員でもなく、事故や病気で働けなくなった時の補償など何もない、メッセンジャーとしてのスキルをどんなに蓄積しても他所では無意味だと思える毎日です。

ずっと続けて行けるとは思ってないのに、目先の生活の為に辞めることができない。彼の視点から見える世界は表層的で、相手がどういうものかは分かっても、その中身ー原理や仕組みーは分からないものばかり。そんなものに取り囲まれて、今にも窒息しそうな息苦しさに耐えている、1人の若い生活者です。

実にリアルですが、ここまでならどこかに既視感はあります。こうした社会の歯車として生きる若者の実態や憂鬱を描いた作品は、小説に限らずだいぶ描き尽くされてきたからです。

物語が一転するのは後半。主人公が置かれている状況が何の説明もなく急変しており、驚くような状態になっています。

小説が面白くなるのはここからで、前半のメッセンジャーとして働くサクマの日常の描写が、真の着地点を模索するための前振りでしかなかったということが、読むほどに分かってきます。

前半、サクマを取り囲む世界の方がブラックボックスだと思って読み進めていたのですが、より深い暗がりを持つのは、サクマ自身であり、そこと向き合うことを避けているサクマの心の様子が覗けてきます。人間の生き難さ、のようなものがしっかりと伝わってくる内容だったかと思います。

作品の中で読み応えを最も感じたのは、サクマという人物の描き方です。その行動の全てが、刻々に変化する彼自身の微妙な時々の肉体的状態や五感のみならず、彼にはどうしようもなくこれもまた時々で変化する対人や生活環境や諸々の外的な要因に、常にひきづられるようにして導かれていて、そこに人間の脆さやあやふやさ、分からなさといったものがあり、それを実に克明に描きあげている、という点です。この点だけでも、作品は評価に値する内容だったと思います。

個人的にはやや曖昧に希望を持たせるラストが気になりました。人間としてのサクマの内側からの何かがもう少し突き上げてきて欲しかったのですが、この曖昧さも含めて、中身がようとしている暗箱のイメージならば、これでいいのかもしれません。