第164回芥川賞候補作品

『旅する練習』

乗代雄介(著)

(『群像』202012月号に掲載)

中学進学を控えた少女と、その叔父(小説家)という、普通あまり見かけない組み合わせで展開される2人旅(途中から3に人なる)。

小説家である叔父の視点から旅は記録され、私小説の様相をみせる旅日記のような内容になっています。

サッカー少女である姪の個性豊かな明るさや、子供らしいとっぴで素直な愛らしさ。姪という1人の人間は、小説家の視点から、叔父の視点から、ひたすら観察され分析され続けている。観察されたものは、時間を超えて文字に起こされ書き残される。

注目すべきは、文体であったと思います。

視点人物である語り手の、知的で冷静であるのにどこか間の抜けた緩い感性がそのまま文体の重要な要素となっています。他にも、旅情、文学趣味、叔父と姪の家族愛、友情、サリンジャーを彷彿とさせるイノセントなセンチメンタリズム、といったさまざまな要素が文章の中で絡み合い出来た文体は、独特の空気感と速度感を醸していました。

ラストを読むまで、もしも注意深く読み込んでいたなら当然予測されていたに違いない結末に、読者は驚くでしょう。

少なくとも、私は驚いたのでした。ある程度は警戒して頭の片隅に置いていた筋書きであったにも関わらず、そこにたどり着いた時、確かに衝撃がありました。

ストで世界は暗転し、ユーモラスで少し退屈だった旅日記は、全く違う風貌でたち現れてくる。どうしても読み返さずにはいられないという衝動に駆られてしまいました。

ああ、退屈なんかではない、全て完璧だったんだ、とその時になって気づかされるという、あざとさ。気まぐれに書かれていたと思われたラフなスケッチ画のような文章も、全てが完璧に美しい。

文学の世界では、ともすると陳腐だと切り捨てられてしまいがちな、ある種のセンチメンタルを、この作品は文学として確かに美しいと述べられるまでに高めていると思いました。

芥川賞の選考の場では、ここをどのように評価されるのか分かりませんが、私は高く評価します。今回の候補作の中では、最も退屈に読んだにも関わらず、最も心を掴まれた一作でした。