第163回芥川賞候補作品

『破局』

遠野遥(著) 

(『文藝』2020年夏号に掲載)

 

高校時代ラグビーの選手だった『私』は、現在大学四年生。自らは公務員試験を控えていて、堅実な未来を見据えているが、政治家を目指して忙しく奔走する彼女との間には微妙な距離ができている。そんな折に知り合った後輩の灯に惹かれていき…。

ありがちな大学生の恋愛ドラマかと思いきや、小説が進むほどに面白くなった。

語り手の「私」は、体育会系で性格は真面目。他者への思いやりもあるかに見える、一見好青年風な男だが、何かがわずかに不気味である。この不気味さは、どこから来るものなのか、そもそも作者が意図してあるものなのかも分からない。

が、確かに語り手が何かを語るほどに、一定の寒々しさのようなものが生まれてくるように感じる。しかもその寒々しさは、次第に積み重なってくる。

視点人物であるこの語り手は、視覚に映るものをとにかく冷静に見たまま、ありのままに伝えてくる。そこに、自分の感情的なものを交えたり、触れてくることもあるけれど、時々自分の感情に疑問符を付けている。まるで映画のカメラワークのように視覚化され淡々と言語化される世界の静けさに対し、語り手の内面世界は揺らいでいて儚げで、分かりにくい。

主人公が突然理由もなく泣き出すシーンがある。ハッとなった。 

主人公は理由もなく涙が出てきたのに対し、自分自身が困惑してしまい、だからその事象を分析しようとする。そこで、自分には泣く理由などどこにもない、だから悲しくないのだ、という結論にたどり着いて、泣き止む。むしろ泣き出す前よりも晴れやかな気分にさえなる。ここに、この人物の造形が集約されているように思えた。

つまりこの語り手は、語り手として極めて冷静に世界の姿をあるがままに描き出しているが、自らの内面世界(感情)において、まだ追求しきれていないのだ。自分の感情なのにつかみきれていないし、つかみきれないそれを持て余した結果、泣く理由が無いから悲しくないのだという、どうにもおかしな逆説にたどり着き、納得してしまう。ここにこそ、この語り手、いやこの小説の不気味さがあると思えた。

人間の分かり難さが、作品全体の奥行きとなり広がりを見せていて、構成、文体共に企みに満ちている。読み味のいい作品かどうかは別にして、侮れないものを強く感じる。