誰でもない (韓国文学のオクリモノ)

『誰でもない』

ファン・ジョンウン(著)

斎藤真理子(訳)

(晶文社)

 

 

韓国の作家ファン・ジョンウンさんの、全8篇からなる短篇集です。

著者自ら、そして訳者である斉藤真理子さんも触れられていますが、「誰でもない」というのは、本書に収められた作品の中の「ミョンシル」の雑誌掲載時の題名である「誰でもない ミョンシル」からきているのだそうです。

この「誰でもない」という言葉には、「他の誰でもない」とか「代わりのいない」というように、肯定的な想いが込められているものであるらしいのですが(※『訳者あとがき』を参照)、これを多くの人が「何でもない」と誤解して読んでしまうということを著者は指摘しています。

その上で著者は、”私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思え”るとも言っています。(※本書巻末の『日本の読者の皆さんへ』より抜粋)。

これはどういうことだろうかと考えるのですが、社会の中での個人の「生」に一番の関心がもたれているということなのだろうと、私自身は解釈しました。「誰でもない」を「何でもない」と読み違えてしまうような人々にこそ、著者は光を当てているのです。

本書に収められた作品群には、暗い世相が色濃く反映されています。それは経済危機なども体験した韓国社会そのものを反映しているのだと言えるのだと思いますが、日本という社会しか知らない私が読んでも、素直に染み込んでくる感覚でもあります。

その暗く重苦しい社会の中で生きる個人の感情の痛みが、作品群の随所から立ち昇っていたように感じます。

社会の澱の中でじっと息を殺して生きている人々の姿があり、救いなど見当たらないように見えても、それでも作品を読んでいて息苦しいという感覚にならないのは、おそらく著者自身が、痛んでいる人々の目線や痛みそのものと非常に近い場所にいて、そこから切々と(時に客観的に、ユーモアも交え)書いているような印象を受けるからだと思います(言葉の感覚の鋭い作家、という以前に、私にとってファン・ジョンウンという人物は、どこか人間的に繊細な側面を隠し持つ興味深い人、という心象です)。

特に印象深かったのは前述の「ミョンシル」という作品ですが、第一話目の「上京」という作品も、田舎の老婦人の見せた一瞬の表情による(語らずに語られた)内面描写などに精彩があり、惹かれました。

今のところ、日本で出版されているのは、少し前に読書感想を書いた『野蛮なアリスさん』と本書の二作しかないのではないかと思います(もし他にあれば、すぐにも手にしたいところです)。韓国ではかなり注目されている実力ある作家さんというだけに、これからさらに多くの作品が日本で紹介されることを切に願います。