すばる2018年6月号

『転写か翻訳』

春見朔子(著)

(『すばる』2018年6月号に掲載)

 

 

 

大学で教授秘書のアルバイトをはじめた「私」。勤めはじめた研究室には、高校時代の同級生だった関谷が所属していた。だが、関谷は今は大学から姿を消していて、どこにもいない。関谷は死んでいた(と、聞かされている)。

いるはずのない人物に語り掛け、その残像を追いかけるような「私」の、誰にも語られることのない思いは、「恋」だろうか?

いや、きっとそうではない。……という気がする。

恋とか友情とか、言葉に変換してみると途端に間違ってしまうような関係が、描かれているのだと思う。

「転写と翻訳」というのは、生物の遺伝子に関する用語であるみたいだ。遺伝情報が書き込まれているDNAの塩基配列が読み取られ、RNAとして情報が写し取られる過程を「転写」。出来上がったRNAの塩基配列が読み取られてタンパク質が合成される過程を「翻訳」というらしい(もっと詳しくは、あるいは正確には、専門書を読まれることを)。

なかなか意味深な題名にも見えるけれど、本来的な言葉の意味である「転写」と「翻訳」で捉える方が、理解しやすいように感じる。

ある人物の正確な肖像や、その人物との過ぎ去った思い出や関係性などは、どんな言葉や方法でも写し取れないし、言い換えも不可能なものなのかもしれない。

少なくとも、この小説の登場人物である「私」は、言葉が追い付かないような関係だった人物との思い出と、その喪失の事実に当惑している。

そういうものにぶち当たった人間の、どうにもならないもどかしさを描くのに、作者は直接的な言語を、あえて慎重に迂回しつつ描くことで、描こうとしている。

そこで、さらなるもどかしさが読者にも伝播することになり、そういうもどかしい感情を、そのもどかしい感覚のまま「転写」し、「翻訳」されたという形が、そこに出現しているのだと思う。

もどかしいけれど、妙に美しいし、その妙に美しいものは、そもそもこういうもどかしい手順でないと導き出せないものなのだ、ということを気づかせてくれる作品だった。