『珊瑚礁の外で』
青来有一(著)
(『文學界』2018年5月号に掲載)
2001年に『聖水』で第124回芥川賞を受賞した青来有一さんは、公務員として長崎原爆資料館の館長を務めながら、小説を書かれているという経歴の方です。
本作『珊瑚礁の外で』の語りの人物は、ほぼ彼の分身だと言ってよいのではないでしょうか。(ペンネームが「セーラムーン」から由来するという間違った噂を、勝手に流されていたという逸話まで同じなので)
青来さんといえば、長崎を舞台にした連作集の『爆心』がすぐ頭に浮かぶのですが、創作の中心にいつも長崎がある、という気がします。長崎は彼の生まれ育った街であり、そして今現在も住み続けている街なのですが、同時に原爆が投下された街でもあります。
長崎を心の中心に据えて創作をするということは、どうしてもどこかで「戦争」を意識するということなのかもしれません。
本作で描かれるのは、現在の長崎ですが、認知症の進行した被爆者でもある八十代の母親を通して、やはり戦争と繋がっています。
語り手の「わたし」は昔、沖縄の海岸でシュノーケリングの途中に珊瑚礁の外まで流されて、死にかけるという経験をするのですが、そこはサーファーから「スーサイド」と呼ばれているサーフィンにうってつけのスポット付近でした。
「スーサイド」=「自殺」という単語から、「suicide attack」(自殺攻撃)」、つまり特攻攻撃が、「わたし」の中で一つのイメージとして、珊瑚礁の外側でみた深海の恐怖と繋がります。
この「死」さえ大きく呑み込んでしまうようなアウトリーフのイメージは、作中で何度も喚起されますが、それは現在の長崎で生きる「わたし」の、日常生活のちょっとした隙間に立ち現れてきます。
造船会社が連れて来たらしい、どこの国の者とも知れない、無法者のような外国人たちのことを「ガイジン」と呼び、怒りを貯め込んでいくとき、「わたし」の心の中には、珊瑚礁の外でみたのと同じ闇があります。
また、認知症で金銭感覚の狂った母親の財産を目当てに近寄ってくる親戚の女に敵意を抱くときも、やはり「わたし」の心には、その闇が顔を出します。
いつかの夏に「わたし」を死に導こうとした珊瑚礁の外側の闇は、人間同士が交流する場所で、人間の心に芽生える、底知れない闇と繋がっているようです。
そう、それはかつて長崎に原爆を投下した米軍兵たちの心にも、あったかもしれませんし、かつてこの国を戦争に向かわせたのも、同じものだったのかもしれません。
平和な日常を送る現在の日本の、ごくありふれた場所で、「戦争」の残骸が息づいているかのような気がして、心の芯が冷たくなる感覚を覚えました。
ただ、青来さんの文章は読みやすく、どこか優しくてユーモラスな所もあり、親しみやすいのです。
本来、ものすごく書きにくいことを、これほどに率直に、そして誠実に書かれている作品には、そんなに巡り遭えることはなく、それが「戦争」にかかわるものであればなおさら、現在の日本では希少であるだろうと思います。
認知症を患っている母親の奇行の数々には、人間の底知れない異様さと難解さが読めてきて、とても面白かったです。
その母親の理不尽な言動に付き合う息子の姿には愛があり、だからこの小説全体には愛があると思いました。