群像 2017年 02 月号 [雑誌]

『蹴爪(ボラン)』

水原涼(著)

(『群像』2017年2月号掲載)

 

 

 

 ペニグノの父親のパウリーノは、(太平洋の西端に浮かぶ島の)村で、闘鶏場の胴元をしている。

昼間は酒ばかり飲んで子供たちと遊んでばかりいるようなパウリーノだが、村はずれの空き地に祠を作ることになったとき、祠建設のリーダーとなる。

祠を建てる発端は、キリスト教の信仰では島の神話の悪魔に対抗できない、と誰かが言いだしたことからだった。

島では数年に一度大きな地震が起きて人々の暮らしを脅かし、(祠が建てられることになったころ)凶悪な殺人事件が起こったりしていた。

祠の建築作業がはじまると、村人たちが木の板などに様々な願い事を書いたものが、建設地の空き地に積み上がっていった。

だが、大きな地震が起きて、完成前に祠は倒れてしまう。

祠が倒れたのは、パウリーノの責任だ、という噂が村中に広がり……。

南洋の島(おそらく、フィリピンの島のどこか)が舞台になっている物語で、スマートフォンが登場するので時代背景は現代のようです。

近年はナマコの養殖が流行っているという村では、闘鶏が盛んで、ほとんどの家で鶏が飼われ、夜になって開かれる(闘鶏の)催しに、男たちは熱狂します。(蹴爪とは、キジ科の鳥の、雄の後ろ足にある突起物のことですが、ここでは闘鶏で鶏の足に付ける武具のようなものであるようです)

これは、閉ざされた世界で行き場を失くした、暴力の循環を描いた作品なんだと思いました。

頻繁に地震が起こる、貧しいその村では、悪魔(ティクバラン)にまつわる迷信が人々の生活に根付いていて、根拠のない無責任な噂話が真実よりも幅をきかせています。

主人公ベニグノの父親(パウリーノ)もまた、そうした噂の当事者となり、運命を狂わされていく人物の一人です。

そして、一家の主の不幸は、直ちにその家族にも伝播し、ペニグノもまた、村の中で行き場を失くしていきます。

実の兄の暴力により、家の中でさえも、彼の平穏は保たれることはありません。

この行き場のない閉塞感の中で、ペニグノはひたすら静かに負の感情を溜め込み、やがてそれは暴力へと転化され、放出されようとします。

ただし、彼の生きている世界は結局のところ狭く閉ざされた島の中の村なので、暴力の放出は彼に自由を与えるというよりも、新しい暴力の連鎖を生み出すだけなのかもしれません。ラストの不穏さの中に、そのやりきれなさが滲んで見えて、なかなかにシュールな読みごたえを感じました。

出口のない物語ではありますが、遠い南洋の島に生きる少年の孤独がひたひたと伝わってきて、そこには妙な美しさがあり、読後感はそれほど悪くありませんでした。

ベニグノの物語と併行して起こっている不気味な殺人事件が、物語全体にさらに深い影を投げ、緊張感を高めていて、構成としても成功している作品であると思います。