高架線

『高架線』

滝口悠生(著)

(講談社)

 

 

 

 西部池袋線の東長崎駅の近くにある、老朽化の甚だしいアパート「かたばみ荘」。

大家の意向で、建物の管理や賃貸契約等に不動産屋が関わることはなく、住人は引っ越す時、必ず部屋を引き継ぐ次の住人を自分で連れてくる決まりとなっている。

そのような変わったシステム(?)と建物のボロさ故か、東京で家賃三万円という破格の安さである。

新井田千一も、大学の写真サークルの先輩から部屋を引き継ぎ「かたばみ荘」の住人となったうちの一人だった。

退去時には(決まり通りに)サークルの後輩を介して見つけた次の住人を連れて来た。それが、片川三郎という男だった。

新井田千一が片川三郎に部屋を渡してだいぶ年月が過ぎたころ、「かたばみ荘」の大家から突然電話がかかってきた。どうやら片川三郎が行方不明になって困っている、という状態であるらしい。

大家としては、部屋が空いたままであるのが何より辛いらしく、「また住みませんか?」と新井田に持ち掛けてくるのだった。

【感想】

2017年3月号の『群像』に掲載された、滝口悠生さんの長篇小説『高架線』が、とにかく面白かった。

おそらく、初の長篇だと思うのですが、短篇や中篇とは違う、より熟成された「滝口悠生の世界」がそこにはあって、はじめて読むのに、なぜかとても懐かしいものに触れた感覚がありました。

物語りは、新井田千一という「かたばみ荘」の元住人の一人語りからはじまり、彼から部屋を引き継いだ片川三郎という男の巻き起こした失踪事件に繋がっていきます。

新井田千一の、(本人も自覚的であるのですが)その語りの要領の悪さが、様々な脱線や婉曲を繰り返すことで、むしろ物語の奥行を広げています。

視点は途中から、片側三郎の幼馴染みの七見歩へとバトンタッチされ、七見歩の語りになります。

片側三郎の失踪事件はさらに語られていくのですが、しばらくすると語り手は、七見歩の恋人(後の妻)である奈緒子へと移行し、片側三郎の失踪事件の顛末が大方語られてしまうと、今度は峠茶太郎という新たなる語り手へと移行します。彼も「かたばみ荘」と関りがあり、片側三郎が元住んでいた部屋の住人になる男です。

と、このように、語り手が次々と入れ変わり(峠茶太郎の後も語り手は入れ替わる)、その語られる内容も一つの事件や出来事の顛末を追うのではなく、「かたばみ荘」というアパートに関わった人々の繋がりや思い出や周辺を何となく漂いながら物語が紡がれていき、気が付くとそれで一つの完成された群像劇のような世界が出現してしまっている、という奇妙な(というのも奇妙ですが)構造になっているのです。

このようなことは、計算づくでできる類のものだとはどうしても思えず、こんな小説が書けるのは、滝口悠生さんしかいないのではないでしょうか。

『わたしの小春日和』を読んで以来、ずっと好きで注目してきましたが、これからも目が離せない作家さんです。