日の名残り (ハヤカワepi文庫)

『日の名残り』

カズオ・イシグロ(著)

/土屋政雄(訳)

(ハヤカワepi文庫)

 

 

 第二次世界大戦後のイギリス。

ダーリントン・ホールで長年執事を務めるスティーブンス(「」)は、ある問題に直面していた。

前の主人であるダーリントン卿のいなくなった屋敷の新しい所有者となった、アメリカ人のファラディ氏の元で、引き続き執事として残った彼だったが、以前働いていた雇人のほとんどはいなくなり、かつて17人いた雇人が、現在はたった4人となり、この少人数で切り盛りしなければならない、という情況にあった。

厳しい職務計画の中、小さなミスが起きることもあり、心穏やかでない日々が続く。

そんな1956年の7月、主人のファラディ氏からスティーブンスへ、ある僥倖とも言える提案があった。

8月9月は5週間ほどアメリカに帰ることにしたので、スティーブンスも骨休みに2、3日のドライブに出かけてはどうか、というもの。しかも、自分の車(立派なフォード)を貸してくれて、ガソリン代まで出してくれるという素晴らしい申し出なのだった。

彼の中で、一つの計画が膨らみはじめる。

それは、ファラディ氏からの申し出を受けて、西部地方を旅行し、その途中で、以前屋敷に女中頭として働いていたミス・ケントンを訪ねる、というものだった。

ミス・ケントンは実に模範的な職業意識を持っていた女性で、二十年近く屋敷を離れていたが、最近手紙を貰っていた。

ミス・ケントンが屋敷に戻りたがっているのかもしれないと、この手紙をもらったことをきっかけに、考えだしていたスティーブンスは、彼女が職務に復帰すれば、屋敷が抱えている当面の問題を解決できるかもしれない、と考えるようにもなる。

”ミス・ケントンの手紙の真意を確かめるため”という意味においても、西部地方への旅行は重要になった。

そして、改めて主人ファラディ氏からの「許可」をもらったスティーブンスは、迷うことなく、ドライブ旅行に出かける。

 

『日の名残り』は、この度ノーベル文学受賞を受賞されたカズオ・イシグロさんが、1989年に発表した作品です。

本作は、同年のブッカー賞を受賞しました。(※ブッカー賞は、イギリスの文学賞で、世界的にも権威のある文学賞の一つです)

1956年である「現在」と、1920年~1930年ごろに当たる「過去」を、主人公であるスティーブンスの語りで、行きつ戻りつしながら、物語は進みます。

スティーブンスが、「品格ある」執事として、人生の多くの時間を捧げた、ダーリントン・ホール

その屋敷が、最も華やかだった時代への追憶とともに、ミス・ケントンとの思い出や、自分と同じ執事として尊敬すべき先輩でもあった父親との死別、大戦中、ナチス・ドイツによる対イギリス工作に巻き込まれて不遇の死を遂げた前雇い主であるダーリントン卿への想い、……など、様々な記憶と現在の思いが交錯します。

物語の終盤でのミス・ケントンとの再会が、二十年近く秘めてきたスティーブンスの本心を浮き彫りにします。

重要なのは、語られていることと、その言葉の裏側にある真実は、必ずしも一致しない、ということ。

慎重に読み解かなければ、誤解や見落としをしてしまいそうな、語りと真実の「ズレ」こそが、作中で多くのことを語ってくれます。

ステーブンスという一人の執事の人生を通して、失われつつある「伝統的な英国」を懐かしみながら、生きることの意味を問う本作は、大戦の残した記憶にも大きく触れています。その上での再生を暗示するラストには、人間への信頼と愛を感じます。

既に、世界中で多くの読者に愛されている作品ですが、今回ノーベル文学賞を受賞されたことで、さらに多くの読者の心に触れ得る機会が出来たことと、一愛読者として、感慨を深めるところです。

改めて、ノーベル文学賞の受賞、おめでとうございます。