第十八回三島由紀夫賞受賞作品
『六〇〇〇度の愛』
鹿島田真希(著)
製本所の工場長である夫と息子、三人で団地に暮らす「女」。「女」は、何不自由のない専業主婦だったが、ある日、団地の火災報知器が誤作動で鳴る騒ぎの後、ひとり長崎に旅立つ。
かつて原爆が投下され、六〇〇〇度の熱で焼かれた街で、女はひとりの男と出会う。ロシア人の血を引くこの若い男と、「女」は、ひと時、愛を交わし合う。 |
本作は、2005年に三島賞を受賞しました。
鹿島田真希さんは、2012年に『冥土めぐり』で、第147回芥川賞を受賞していて、2007年には『ピカルディーの三度』で野間文芸新人賞も受賞しているので、笙野頼子さん以来の純文学新人賞三冠作家です。
なお本作は、マルグリット・デュラスの『ヒロシマ、私の恋人』を下敷きにしています。本人も公言したうえで敢えて挑んでいるので、作品の類似点はかなり多いようです。
例えば、作中、恋人となる青年を「女」が「長崎」と命名するなどしているのも、デュラス作品へのオマージュではないでしょうか。
鹿島田真希さんは、デュラスの他にも、ドストエフスキーなどのロシア文学にも傾倒していて(その影響でキリスト教に入信したようですが)、本作中にもその影響は色濃く滲んでいます。
本作を読んだ最も素直な感想は、文章そのものが、とても意識的に存在感を持っている、ということでした。
一つ一つの言葉には力があり、一釘一釘叩き込むかのように、直に心に打ち付けられてくるようでした。
例えば、こんなくだり
”頭の中が次第に無機的になっていくのがわかったわ。体はなんだか寒かったわ。熱というものがなんだったかさえ、もうイメージできなかった。(『六〇〇〇度の愛』より)
などは、読んでいて、ぞくぞくしました。「六〇〇〇度」というとてつもない高温のイメージを、人は捉えきれないのだということを、肌感のような近さで伝えようとしている気配がしました。
また、「語り」の姿勢が一貫して整っていて、隙の無い印象も受けました。
「長崎」に込めた暗喩が、作品全体を、正しくきのこ雲のように覆っていて、下手をすると本当に火傷しそうな危うさも孕んでいると感じました。
特に、現代の恋愛(といっていいものなのかどうか微妙ですが)に過去の戦争を持ち込んでいる所に、純粋さとは別の企みの深さを見るようで、そこに少し恐怖を感じました。余程の覚悟で書いているんだ、とも思いました。
ただ、主人公を含めて、登場人物たちは希薄な影法師みたいで、現実に生きている人間の臭気を感じませんでした。
主人公の「女」(もしくは「私」)が現実の人間の臭気を帯びていたのは、団地の警報機が鳴り渡る前だけだった気がします。
自殺した兄の記憶や、その兄への深い思慕も、やや文学めいた雰囲気の中で浮遊しているだけのようで、今一つ掴みにくいままでした。
けれどこれらのことは、すべて計算された、意図的なものなのかもしれません。そこから発せられていたのは、「生きている実感のなさや、心もとなさ」ということだったのでしょうか。
私には、まだまだ不可解なところもだいぶあります。
もう少し、鹿島田作品を読み深めて、再度熟考する必要がありそうです。