「わたしの小春日和」
滝口悠生著
(『寝相』新潮社 に収録 )
現在無職の「私」(行夫)は、仕事を見つけるどころか、その探し方すらよく分からなくなった。
思いついたのは、知っている番号ならどこでも電話をかけてみるという方法(かかりつけの歯医者なども含む)と、とにかく外を歩き回る、という二つのやり方。 だがそんな方法で、やはり仕事は見つからない。妻との関係も危うくなっていた。いよいよある日、口論になってしまう。 ちょうどその頃、同級生の結婚パーティーに出席するために実家に一時帰宅することになっていたので、それを機に、そのまましばらく妻と離れて実家で暮らすことにする。 そこで、地元の同級生の馬場や坂口らと再会し、昔を懐かしむと同時に、大人になったそれぞれの近況を知る。 また「私」は、近所に住んでいた元ヤンキーの安西加代子も、二人の子供を連れて実家に戻っていることを知る。 安西加代子は、地元では有名なスケバンで、私とは小中学校が一緒だったが、高校からは交流もなくなっていた。 その後、安西加代子の息子(洋平)と「私」は、妙なきっかけで知り合うことになる。 |
滝口悠生さんは、『楽器』(『寝相』新潮社 に収録)で、新潮新人賞を受賞してデビューしています。
『楽器』では、物語が一人称と三人称を交互に行き来して複雑な視点移動がありました。本作でも、途中で他の登場人物に移動する場面は一部ありますが、おおむね主人公の「私」の視点から描かれていています。
中盤になって、奇妙な線の話が出てきます。
ある時から、「私」の実家を含む一区画をぐるりと囲んで、白い線が引かれるようになったのですが、チョークで描かれたようなものではなく、石か金属のようなもので地面を引っかいていて、それは毎日更新されるように新しく引かれるので、少しずつ線の溝は深くなっているのです。
これをはじめに発見したのは、「私」の母親でした。
彼女はこれが東日本大震災と何らかの関係があるのではないか、などと「考えを巡らせるのですが、誰が引いたものなのか、半年経っても犯人は分からないままです。
この線に沿って、街中をほふく前進していく洋平が登場する辺りが、何とも言えずシュールです。
やがて、母親から洋平の話を聞いた「私」は洋平と知り合い、ほふく前進をはじめたきっかけなどを聞き出しますが、肝心の理由や目的、彼が奇妙な線を引いた犯人なのかどうかすら、結局のところわかりません。
「私」は洋平に質問することをやめ、一緒になって街をほふく前進します。
この掴みどころのない洋平という少年と、「私」の内側にあるものは、非常によく似ています。
いい年の大人が、子供と一緒にほふく前進して街を練りまわるなど、ちょっとおかしいかもしれませんが、「私」の内面が通常の世界の価値観から外れていて、解き放たれているということなのだと思います。
これは、ほふく前進するときの目線が、地面すれすれなのと関係しているようです。
手掛かりとして、もう一人の主要登場人物である洋平の母親(安西加代子)が、中学生時代、自転車で転倒して地面に転がったときに見た風景から、不思議な心の境地に至る、というエピソードがあります。このときの彼女の目線も、地面に近い場所にあって、世界を見上げています。
この二つのエピソードは繋がっているんだと思います。
普段とは違う目線で見える世界を、登場人物たちはそれぞれがそれぞれのやり方で、心に刻み付けているようです。それが、「小春日和」という言葉に象徴されているのでしょう。
「わたしの」とわざわざしてあるのは、それぞれの心が向かい合う小春日和があることの表れで、それぞれの「小春日和」が、物語の至る所から萌えているようなイメージで、私はこの作品を読みました。
ただし、これは私個人の読み方による解釈で、この作品を含む滝口悠生さんの小説の素晴らしいところは、理解や解釈できる幅が非常に大きいことです。
もっと色んな読み方や味わい方が、きっとあるんだと思います。
そういう作品です。