「だだだな町、ぐぐぐなおれ」
広小路尚祈著
(第50回群像新人文学賞 小説優秀作)
(『群像』2007年6月号掲載)
退屈な田舎町(『だだだ』な感じ)に生まれ育ち、そのあまりにも平和で豊かで中途半端に恵まれた感じがカッコ悪いと思い、嫌気がさしていた、「おれ」。
その『だだだ』的な退屈さやカッコ悪さから逃れるために、友人を誘いこんでバンドをはじめ、青春を謳歌していく、おれだった(『ぐぐぐ』な感じ)。 しっかりした演奏技術のいるヘヴィメタから手軽に出来て硬派も気取れるパンクロックに鞍替えしたが、『ぐぐぐ』なバンド活動を持続させるために、退屈で仕方ない『だだだ』なバイトに精を出す日々。 そのバイト先で知り合った『だだだ』な感じの女に一度は心惹かれ、彼女との『だだだ』的幸福な未来を想い描くおれだったが、その彼女にはフラれてしまう。それからはひたすらロックにのめり込む日々。 高校を卒業すると就職して『だだだ』な日々。嫌になってすぐ辞めると、町を出て「N市」で新しいバンドに入り、『だらだらとぼちぼち』の日々。そして腐っていく、おれだった。 7年してまた再び『だだだ』の町に帰って来た、おれ。『だだだ』の彼女と再会した、おれが辿り着くのは……。 |
明確な『だだだ』『ぐぐぐ』の言語解説などないのですが、『ガー』とか『バー』とか『ガガガッ』とかいう漫画的擬音の一種なのでしょう。『だだだ』というのは体制的、日和見的、無個性、カッコ悪い、くらいのことで、『ぐぐぐ』はその反対で反体制的、破壊的、個性的、カッコイイ、くらいのことでしょうか。
ここに登場する主人公の「おれ」は、自ら『ぐぐぐ』といっているくらいだから、自我の非常に強そうな性格です。ただし過剰な自意識ほどに個性的かというと、我が国の地方社会では、割にいそうなタイプの少年(成長するからやがて青年)だと言ってしまえそうです。
ヤンキーでもなく、かといって真面目でもない。というところからして、実は既に日和見主義、事なかれ主義を内包しているともいえます。しかしながら、縦や横に繋がる体制的な権力に嫌悪感を抱いているから、暴走族などは嫌いである、などと言った具合に群れ社会を嫌悪しながらも、一匹オオカミにはなり切れずにバンド仲間を求め続ける。
事なかれ主義の退屈な世界に飽き飽きしていてバンドなど組んだと説明しても、そもそも本格的に音楽に取り組む気もなくて、適当でも様になると思っているからパンクロックをやっているだけで、そこに音楽的こだわりなどないのです。そのことは、実は本人が一番よく自覚していて、だからそんな状態でどんなにバンドにのめり込もうとも、やがてその内側は腐っていくしかないのです。
典型を嫌いながら典型に成り下がっている個性を、きちんと自覚したうえで作者が描いている所が、この小説の面白いところでしょう。また、地方社会の捉え方も、『地方対都会』などという余りにもあからさまな典型にするのではなく、問題をその社会に生活する人間の内面に突き詰めています。
『地方対都会』の図式になると、どうしても『貧と富』とか『流行対流行遅れ』となってしまって、いかにも画一化した構図に陥る恐れがあると思うのですが、問題を人間の内面に追及しているのですから、同じ『ダサイ』『ダサくない』の話をしても、もっと方向性の違う世界が見えてくるのです。そこに個人的な人生観を重ねていくと、実に味わいのある青春ストーリーが出来上がるという訳です。
一読した感想としては、前半のリズミカルなテンポと語感の良さに圧倒されました。言葉を楽しみながら奏でている、といった具合で、間髪も入れずに差し挟まれてくるシニカルな表現の数々は粉塵の様に笑いを巻き起こしていって、それがどこまで読んでも途絶えない。小気味良い文章が続きます。
ただし後半からはこの小気味良さが歯切れの悪さになり、同じような観念論が続いたので、かなりトーンダウンしました。出来れば前半同様の勢いを失くさずに疾走し続けて、あるいはもっと爆発的なエンジンを吹かし抜いてラストまで走り続けて欲しかったです。
けれど、言葉遊びの顕著な作品ではあっても、一人の男の人生を内面の葛藤と共に描きあげる訳ですから、当然どこかでは失速するのも自然なわけです。
全体として、とても面白い小説だと思います。
なお。この回は、芥川賞も受賞した諏訪哲史の『アサッテの人』(→読書感想はこちら)が当選作として選ばれていています。こちらがなければ、おそらくは当選作として選ばれていただろうな、という手応えのある作品です。
ちなみにですが、広小路尚祈さんは、二度ほど芥川賞候補にもなっています。
「うちに帰ろう」(第143回芥川賞候補)
「まちなか」(第146回芥川賞候補)