アサッテの人 (講談社文庫)

「アサッテの人」諏訪哲史著

(第50回群像新人文学賞/

 第137回芥川賞 受賞作)

 

 

群像新人文学賞と芥川賞という大きな賞をデビュー作で同時受賞するというのは、村上龍以来の快挙で、普通の新人ではあまりないことです。作者の経歴を見れば、小学校時代からかなり多読だったようで、デビュー前の大学時代には独文学者の種村季弘氏などに師事を受け意欲的に学び続けます。結果書かれた「アサッテの人」は、満を持しての受賞だったと言えるでしょう。

(ただし、彼の作風はおそらく好き嫌いの領域が別れるきらいはあるでしょう。芥川賞の選考でも、体勢は評価されていますが、一部の選考委員からは不満が滲んでいました。)

 語り手「私」は、失踪した叔父のことを書こうとしている。叔父と過ごした日々の記憶や、今は亡き叔父の妻(つまり「私」の叔母)から聞き書きしたものや、叔父自身が残した日記などを元に、『アサッテの人』なる小説を書こうとしているのだ。

 元々、幼少期から吃音が治らなかった叔父が、あるきっかけでそれが治ってしまうことから、物語は展開する。今まで吃音によって弾かれてきた世界が、今度は急に自分を「統一」しようとしてくるのだとその気配に本能的な嫌悪を覚えた叔父は、吃音に代わる『吃音的なもの』を自ら生み出そうとした。

 それこそが”ポンパ!”や”ホエミャウ”なる奇声語(?)のようなものであり、常人では理解できないシュチュエーションでこれを発声するという奇行を、叔父は大真面目に哲学的な信念の元、繰り返すのだった。

 この行動――常人ではおよそ理解できないであろう――を通常の生活の中で時折するということは、社会の常識とは違う方向性を人知れず胸に秘めているということであり、このような精神性で生きようとするのが叔父であり、『アサッテの人』なのである。

世の中に蔓延る『日常化された常識』の中で、普段は平静に暮らしながらも、心のどこかにはこれに反抗し、そこから逃れたいと願うもう一つの心がある。ということを、『アサッテ』という実に感覚的な言葉で表しているわけです。

しかし、小説の読みどころは、こうした多くの現代人にも繋がるような心の問題に触れているとかいうことではなく、小説そのものを作り込んでいく過程だったり、”ポンパ!”や”ホエミャウ”なる言語がどのようにして生まれたのかというくだりや、その使用場面や活用法を他者(主に叔母)の視点および他者の視点を通した「私」の視点が類推するまでの描写だったり、「叔父」という掴みどころのない一個性を多角的に捉え、また描き出そうとして「私」が小説中で悪戦苦闘しているさま、etc……。 

 ……という、本来ならば『小説の裏方』的なものでしかなくて表には出ないはずの部分を、むしろ大々的に骨組みに組み込んで曝している風味です。小説そのもの、言葉そのものを重点として描いているわけです。こういう手法はもちろん、作者独自のものではなくて、『メタフィクション』という一つの小説のパターンとして認識されている手法で、筒井康隆や円城塔など、この分野を得意とする作家は複数います。

選評では、加藤典洋氏が、

きわめて意識的な言葉へのこだわりをもとに書かれている。(『群像』2007年6月号ー選評ーより)

と評している一方で、

叔父さんの人間的な魅力がもう少し作品に漂うようであると、評者としてはもっとうれしい。(同上より)

と、述べられていますが、小説そのものを主役にするようなメタフィクションにしては、まして記憶や資料の中にしかいない人物の客観的な描写にしては、その掴みどころのない印象など含めて、味わい深くよく描かれていると思います。

言語障害という特殊な状況を介して、そこから言語一つ一つが持つ風合いや感覚(実際に発音するときの物理的な問題点なども含めて)くっきりとした個性を持っているということを改めて知らされてくる、という点でも興味深く読みました。

小説を構成しているのはもちろん一個一個の単語ですが、この単語も一音一音分解できるのであり、一音中にも発音の易しい難しいがあってその組み合わせでも変化が生じる。小説とはある意味「音」の集合でもあるのだと思い、当たり前のことですが、当たり前のことを普段忘れていて、そういうことを上手く拾い上げてきて書くものが小説であるんだな、とまた当たり前のことを思い出させてもらいました。