「コンビニ人間」
村田 沙耶香 著
(『文學界』2016年6月号掲載)
「授乳」(第46回群像新人文学賞優秀作)、「ギンイロノウタ」(第31回野間文芸新人賞)、「しろいろの街の、その骨の体温の」(第26回三島由紀夫賞)……と、数々の文学作品を世に出している村田沙耶香さんですが、実は売れっ子作家である今現在においても、コンビニエンスストアのアルバイトをしている、という異色のライフスタイルを貫いています。そして今回、芥川賞候補にもなっている作品「コンビニ人間」を出されました。こんな面白そうな作品、書かれたら読むしかありませんよね(笑)
実際に読んだ感想ですが、まさに「村田沙耶香ワールド全開!」というところでしょうか。”壊れた明るいネガティブ”と私は勝手にそう呼んでいますが、救いようがないのに暗くない、というのが村田さんのいい持ち味だと感じています。
物語りは、コンビニのアルバイトを自分の天職だと信じている、三十代後半の女性(「私」)が主人公です。子供の頃から「普通」であるということがどういうことなのか分からず、周囲から浮いた存在だった「私」が、唯一世の中と関わりながら「一見普通」に見える人間になれる場所。それがコンビニのアルバイトという職場だったのです。その仕事にひたすら真面目に取り組むことで、「実際には普通ではない」プライベートに他人を踏み込ませることなく、、居心地よく生きていたのです。そんな彼女の生活は18年間変わることなく揺るぎなく続き、彼女は幸せでした。それがある時、一切やる気のないデタラメな新人アルバイト「白羽」の出現により、根底から揺るがされることになっていくのですが……。 |
前半の単調さに比べて、「白羽」が登場した辺りからのぶっとんだ筋書きに、興が乗ってきました。この辺りの展開は、村田沙耶香の作品を読んだことがなければ、「思わず引く」人もいるかと思います。どうしようもない破局に向かいつつあることを、読みながらにして予感できるのですが、それでもそうならざるを得ないという所に、可笑しさと怖さがあります。
そうです。村田沙耶香の世界では、「可笑しさ」と「怖さ」は同地点上に共存しています。だから、どんでもなくネガティブなのに、暗くはないし、それでいてふとした瞬間には背筋がぞっとしたりします。
さて、「コンビニ人間」という題名について考えてみます。
「コンビニ」は実際、本来は完全に空洞化された場所に、次々と新しい商品が持ち込まれ配置され満たされていき、一つの店舗として造形されます。そして尚且つ、そのうちの幾つかを客が買っていくことで再び空洞化された場所に、さらに商品を補充することで、常にあるべき状態を維持し続けている、という空間です。中身が入れ替わり続けることが、コンビニの本質ともいえるのです。そこで成立する、”入れ替わることこそ、永遠に変わらないこと”という概念は面白いと思いました。
生きる為に「私」は、自分以外の世界の人たちから、ちょっとづつ考えや仕草、喋り方、着る服のブランドに至るまで吸収し、それらを不自然ではないように若干のアレンジを加えながら模倣します。なんだか、理屈はさっぱりわからないのに、無理やり公式だけ丸暗記するやり方です。そうして、偽物の「私」を作り上げているです。そうすることにより、なんとか世界に連なろうとしてがんばっているのです(もはやネガティブなのか、ポジティブなのかわかりません)。
こういう一個の「個性無き個性」に対し、「コンビニ」という概念を提示することで、村田さんは新しい境地を見いだせたのだと思います。
この「コンビニ」の概念が、常に周囲からの情報を取り入れ続けることだけで成り立っている「私」という主人公の姿にも重なっているのは改めて言う必要もないことですが、「私」以外の圧倒的大多数の人全てが、実は周りからちょっとずつ「個性」を摂取し順次入れ替えながら保っている、ということを、小説の中の「私」は考えます。誰もが、自分の個性は自分だけのものだと思っているはずですが、「個性」とは普通に考えられているような主体的なものなどではないのではないか、とする視点です。
人間として世界から排除されずに「より人間らしく」生きる為に、人間は社会性というものを重視する傾向があります。そして社会性を重視し続けた結果、自らの中身を失い、周囲からそれを補充し続けることでしか自分を保てなくなっているとしたら……。
「コンビニ人間」とは、つまりそうした社会の中であり続ける、あらゆる「個」について当てはめることが出来るということです。
また、この小説は、「コンビニ」という現代的なキーワードを持っていながら、実は遡ること「縄文時代」から途切れることなく存在する「個」と「社会」という問題を、少しずれた感性を持つ一人の女性の視点で切り抜くことで、改めて見つめ直したものなのです。
自分らしく生きることが、すなわち「コンビニ店員として生きることである」という結末は、非常にアイロニーに満ちたものだろうと感じました。
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