注意:私ではなく、妻の読書感想文(かなりの読書家です)

 

アルタッドに捧ぐ『アルタッドに捧ぐ』(金子薫)……第51回(2014)文藝賞

一言で言うと、稀有な小説だと思います。幻想と現実世界が一体化してしまっている、そしてそれがとても自然だ、という新しい境地を開拓しているのではないでしょうか。

題名にもなっているアルタッドというのは、そもそも現実世界の生き物ではありません。この小説のはじまりそのものが、主人公の書いていた小説の主人公”が死んで、その体の一部を小説の原稿とともに庭に埋める所からはじまります。なんともおかしな話ですよね。そもそも、小説の中の主人公の体の一部なんて、物理的に出現している訳ないんですから。では、観念的な作業として埋めたのか、というとどうもそうではなく、埋めようとした原稿用紙から、今度はトカゲアルタッドが出現します。主人公は成り行き上、この生き物を飼い始めることになるのです。普通なら、そこで「なんだそれ?!」となるところですがーー完全に幻想と現実、二つの世界の次元的な境界線を無視しまくってますからねーーでも、ならない。とても自然な流れなのです。「おいおい!」と突っ込みたくなる話を、読者は完全に目くらましされた形で受け入れてしまう。物語世界が進むにつれ、この目くらましはいつの間にか小説世界を貫くテーマへと読者を誘導していきます。「ああ、そのための作戦だったのか!」と読者が気付いた時には、もう完全に作者の思うつぼ、策略に嵌まり込んでしまっていて、「このトカゲ、可愛いなとか作中の登場生物に感情移入までしてしまっているのです。

普段、我々が当たり前だと思っている物事の境界線――この作品中ではそれが幻想と現実な訳ですが。その線を、特製の高性能消しゴムでゴシゴシ消し去ってしまうことで、本来そこになかったはずの、新しい世界の境界線が見えてくる。そういう、ちょっと「だまし絵アート」なワクワク感や可能性を秘めている、そんな作品だと思います。



文芸 2015年 11 月号 [雑誌]『ドール』(山下紘加)……第52回(2015)文藝賞

(文藝収録作品で、現時点で単行本になっておりません)

救いようのない話。という印象です。

ラブドールという、大人の玩具的な人形が出てきます。この人形への恋愛的執着心と、学校でいじめを受けている主人公のネジくれた閉塞感という要素が絡まり物語は進んでいきます。社会からの孤絶と、それ故の内向的世界への没入という構図だと思いますが、これは少し既視感があり、古臭いのでないかと正直思ってしまいました。けれど、人形と性ということを新しい切り口にして(これもそれほど新しいとは思えないのですが)中学生の少年の内面をリアルに描き切った、というよりはそのほの暗い洞窟の一部に、深く筆を下ろした、という点で、評価されるのではないでしょうか。なんというか、少年の体臭が臭い立ってくるような小説だと思います。

少年特有の(おそらくは成人して以降も続いていくだろう)エゴ性的執着心を、これでもか、というほど執拗に描いています。小説全体を貫いている「暗さ」は、この時点の少年が立たされた社会的な地位と、そこに立っている以上逃れられない閉塞感から出ているもので、そこに過不足はないと思います。ただし、一人称で書かれているせいか、独りよがり的な構成になっていて、世界の大きな黒い不条理に対する、突き抜けるような反抗というものもありません。これは、一回とことん救いようのない孤独感をなんの注釈も同情もさしはさまずに書き込んでみたい、という作者の意欲の表れではないでしょうか。



(上記『文藝』収録。つづき)

『地の底の記憶』(畠山丑雄)……第52回(2015)文藝賞(この年は2作品同時受賞)

 

新人でこれだけの筆力、凄い、と思いました。ただし、出だしのくだりはどうかと思われます。主人公たちが小学生という設定も、選考委員の山田詠美さんが指摘した通り、ちょっとおかしいし、正直無理があるように感じます。作品を通して幾つかの場所に、「あれ?」と思ってしまうような描写だったり、「これって必要か?」と困惑してしまうような部分もあったりします。これは、例えば中国の怪異譚なんか綴った「聊斎志異」とか、「グリム童話」や「遠野物語」なんか読んでても出現してくる「不思議」や「余計」に似ている気がします。選考委員の藤沢周さんは、選評の中で、

密告、謀略、閉じ込め、違反、捜索、禁止……。これはウラジーミル・プロップが『昔話の形態学』で示した、物語りなるものに現れる31の機能分類すべてではないか。しかも、行動領域においても、物語に必要な七つの要素をすべて押さえた。(2015年「文藝」冬号)

と言ってますが、そうするともしかしたら、私の感じたこの「不思議」や「余計」なものに対する違和感も、「物語」に必要不可欠な要素なのかもしれませんね。

この小説は、「物語」そのものが主人公なのだ、と藤沢周さんは言っています。だとしたら、ここの辺の稚拙な感じも、もしかすると作者の意図したことだったと言えなくもないかもしれません。

これは子供たちが主人公なのではなく、むしろ、「物語」が主人公なのである。(2015年「文藝」冬号)

この小説の読みどころは、圧倒的に上手い「噓」(=「物語」)の描き方、そこに尽きます。実在する場所や人物、歴史なんかが、架空の場所や人物、歴史とを上手に織り上げて、「いかにも本当にあった話」みたいに仕立てあげる筆の旨さは、物語り中のいろんな「不思議」や「余計」を忘れさせてくれる素晴らしさです。ただし、一つ一つのエピソードが深く掘り下げられていないという意見もあるようです。それさえも、「物語」が主人公ならば納得のいく話ではないでしょうか。