新潮 2016年 09 月号

「ビニール傘」

 岸政彦著

(第156回芥川賞候補作)

(『新潮』 2016年9月号掲載)

 

大阪。北新地に向かう水商売風の若い女を拾うタクシードライバーの男。

信号が赤になった交差点を横切って行ったタクシーの運転手という仕事がどんなものかと考えつつ、派遣されたビルに向かう清掃作業員の男。

その清掃作業員が廊下でモップをかけていると、エレベーターからおりてきた、泣いていたように見える黒髪の女。

レンジで温めた弁当を、客の女に手渡すコンビニ店員の男……。

物語りはこのように、どこかで繋がっているようで全く無関係でもあるような複数の人物の上を自在に視点を切り替えながら巡っていきます。巡っていくうちに、それぞれの物語が微妙に交差しながら膨らんできて、もしかするとこれは同一人物である一組の男女の物語なのかもしれない、と思わせながら、最後には女が飼っていて死んでしまった犬の視点になって終わります。

男にも女にも(犬にも)名前はなく、あるのは仕事だったり外見だったり状況だったりで、それらはどこか暗号のように複雑に記号化されて組み込まれて作品が構築されているという印象。

候補作の中で、一番短い作品ですが、一番試作的で、挑戦的(小説に対して)だという印象でした。またそれだけに、結局何が伝えたいのか分かりづらい部分も多く、多少難解な作品でもあります。

読んでいると、複数の人間だと思っていたものが、途中ドロドロに溶けて一つに収斂してくるような感覚があって、複数の孤独がまるで一つの孤独のようで、大阪を舞台に渦巻いている人間のささやかな営みが、どこか健気にも感じました。

また、大阪が舞台ですが、作品自体は会話意外、標準語で書かれていますし、そこまで大阪という場所に拘っている感じもなく、現代の日本社会の平均的な貧しさと孤独が描かれているんだと思いました。

淀川の河川敷で二人の男女がさす”小さな透明のビニール傘”というのが、どういう象徴なのか(あるいは象徴ですらないのか)上手く掴み切れないのですが、とても細やかに生きている人間をそっと見守っている何か、という気配がして、不思議と切なくて美しい感覚がしました。

岸政彦さんは、社会学者で大学教授でもあるようですが、社会で生きる人間そのものに優しい眼差しを向けている作家であるんだろな、というのが、この作品を読んだ率直な感想でした。