『背高泡立草』 古川真人(著) (集英社)
古川さんといえば、デビュー作からずっと長崎の離島を主な舞台に展開する一族ものの小説を書き続けていますが、本作もやはり同じ家族の物語です。
今回は、二十年以上も打ち捨てられたままになっている納屋の周りに繁る草を刈るために、親族が集るという話。
草刈に集まった人間が家族的な寛いだ会話や交流をしているという、まったく他愛無い描写が続く現代の時間軸の合間に、同じ場所に流れていた過去の時間軸がさし挟まれてきます。
過去の場面に登場する人物と現代の時間軸に登場する人物たちとは、直接的な繋がりはほとんど無いのですが、空間的な繋がりがあります。
この空間的な繋がりは土地の記憶でもあり、そこに生きている人間の生が、時の経過と共に物語化されていくような感触がして、しかも物語化された生は、今現代の時間軸では存在しないにも関わらず、土着の神話みたいに人々の生活のそこここにはほのかに残っているとかいうような(例えばそれは何気なく発せられる家族の会話や老婆の独り言の中などに)感覚で、不思議な読み心地です。
今現代を進行形で生きている人間の生も、過去の神話化された生と同じ運命を辿るのは当たり前の道理で、だから草刈りに集うある一族の1日の出来事もまた、物語化され、やがて昔話として語られていくのだということの、実に控えめで静かなスケッチがここに描かれていたのだと思います。
生きることと認識することと忘れること、そして忘れながら記憶を時に書き換えたりもしながらもたどたどしく土地の言葉で語ること、そんな世界の有り様が全て混在一体化した状態で並立化されていて、書くという作業でこの一連を体系化しているのが古川小説なのかな、とそんなことを思ったり考えたりしたのでした。