群像 2018年 10 月号 [雑誌]

『ヒヨドリ』

小山田浩子(著)

(『群像』2018年10月号に掲載)

 

 

夫と暮らす自宅のベランダに、一匹の雛鳥が迷い込んで……

 

夫と二人暮らしで子供はなく、仕事もしながら生活している、どこにでもいそうな30代の女の視点から描かれる世界。

ベランダに迷い込んだのは、一見可愛らしい鳥の雛なのですが、女の視点から至近距離で観察されるそれは、生きものとしてのグロテスクな感触を持った、不気味さがあります。

それは、自然界の循環の中に生きるものの宿命のようなグロテスクであり、どんなに見た目が可愛らしいものであろうとも、生きものがそこにあるということそのものが、残酷さと不気味さを孕んでいるのだと言わんばかりの印象です。

しかも、そのグロテスクな残酷さと不気味さを孕みつつ成り立っている世界の循環の中には、人間さえも例外なく組み込まれているのであり、おのず視点人物である女もまた、グロテスクな現実世界に囚われているものの一員です。

ごく普通に仲の良い夫婦がいて、その家庭に赤ん坊が産まれる。それは、ベランダに迷い込んだ雛鳥に親鳥が餌を運んでくる光景と同じように、微笑ましい光景であるはずですが、果たしてそれはただ無垢に微笑ましいだけのものなのか、と小説は問いかけてくるかのようです。

結婚、妊娠、出産。

それは、女が女として生まれたからには、自ら自然と望むべきものだと、周囲の圧倒的な立場から常に無言の強制を迫られる、そういう宿命のような逃れられない何かであり、自らの意志とはかけ離れた瞬間には、残酷でグロテスクなものともなりかねない、重たい現実なのではないか。

そんな思いが、作品の内部からひしひしとさざめきたってくるような読み心地でした。

例えば女性の自立や「性」の問題、人権などに注目した社会派的な視点からのアプローチだとしたら、作品は全く違うものになっていたと思います。あくまでも、小山田さんは、生理的で動物的なもの、生物としての潜在的な意識下の部分から世界をとらえ直していることで、女性の置かれている現実の重さや、「生」の実態を描き直しているように感じました。

短篇ですが、細部まで丁寧に描かれていて、読み応えのある一作でした。