この人の閾 (新潮文庫)

第113回芥川賞受賞作品

『この人の閾』

保坂和志(著)

(新潮文庫)

 

 

 

37歳で会社員であるらしい語り手の「ぼく」(三沢)が、仕事で打ち合わせをする約束だった相手にすっぽかされて出来た空きの時間を、大学時代の女友達の家で過ごす、というもの。

これといったストーリーの展開や起伏といったものはなく、静かで淡々とした日常の時間が通り過ぎていきます。

僕が訪ねた女友達(真紀さん)というのは、かつては内に芯のあるものを持った個性的で魅力ある女性だったようなのですが、現在は主婦となり、彼女曰く、夫や息子の”タイム・スケジュールの隙間のようなところで”生きているような毎日を過ごしています。

それで不幸せかというとそうでもなさそうで、聞けば夫のことは”好きよ”というし、生活に不満があるようにも見えない。

彼女は習慣的に本を読むようになったようで、長くてたんたんとしたものを好んで、ずっと読み続けているのです。そして感想を誰かに話すこともなく、読書感想を書くわけでもなく、そこから得られた知識や感情の記憶を、ひたすら自分の中だけに溜め込んでいるのです。

そういう女友達の様子が、「ぼく」というある種の愛情や好奇心を持った存在の視点から眺められ、描写されていきます。

「ぼく」と女友達の間に、男女の情のようなものは感じられず、温かい距離感を持った友情だけで成立しているような関係が、読んでいて羨ましいほどに心地よいのです。

「ぼく」が、庭の草むしりを手伝わされる場面や、飼い犬ニコベエの愛嬌ある挙動など、ストーリーに起伏はなくても十分に引き込まれる要素はあったかと思います。

事件や物語のないところで人間を描き、その本質のようなものに触れようとする過程で、より自然な思考の流れが生み出されていて、この思考の流れというのは、女友達や「ぼく」が過ごした大学時代から繋がるその周辺の友人たちも巻き込んだ大きな時間の流れにもなっていて、こうしたものこそが全てであるという、そんな小説だったかと思います。