『ボクたちはみんな
大人になれなかった』
燃え殻(著)
(新潮社)
燃え殻さんというのは、Twitterの世界で以前から有名で、本作はその彼が初めて書いた小説ということで話題になり、発売から一月も経たないうちに7万分も売れたそうです。
最近は純文学ばかり読んでいますが、元々なんでも(面白い小説なら)読む方です。今回は友人に勧められて手に取りましたが、不思議な感慨を覚えつつ読み進めました。
テレビ番組の美術製作を担当する仕事をしている語り手(「ボク、40代前半」が、現在から20年ほど前の二十代前半を振り返り、そのころ出会って付き合い始めた彼女との純愛の記憶や、青春時代に思いを馳せる、というもの。
その彼女との出会いは1995年の夏。PHSが全盛期で、街に小沢健二の曲が流れていた頃。バブル経済が終わって、世の中は何となく暗澹とした気配に包まれていて、1999年の七の月に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言が信じられていた時代。僕が彼女と別れるのは、まさにその1999年の夏のことだから、20世紀末の出来事ということになります。
この頃、日本中が最も「未来の見えなかった時代」だったのではないかと思います。未来が見えなかったからこそ、殺伐として暗く打ちひしがれていた人間がいた一方で、未来が見えないからこそ、そこに一抹の熱狂を内に秘めて、刻一刻を真剣に生きることができた人間もいたのではないでしょうか。
この小説の主人公である「ボク」は、後者だったのではないかと思うのです。
貧しくて、「失われた世代」と呼ばれ、挙句にもうじき人類が滅亡するとまで言われた終末観の中で生きていた回想の中の時間の方が、それを振り返る現在の「ボク」の、経済的にはだいぶ豊かになった時間よりも、妙にキラキラしている、という印象です。そこには生きている実感のようなものがあって、そしてなぜか切ない。そんな気がするのです。
この小説を読みながら、どうしても思い出してしまう作品がありました。それは木村紅美さんの『雪子さんの足音』という小説です。
これも、本作と時代的に近い時間に青春時代を過ごしていた主人公が描かれていて、作品がやはり回想という形をとっているので、重なって読めてしまったのだと思います。両作品ともに、平成という時代そのものが描かれているのだと感じたのですが、ここでもう一つ気が付いたことがあります。
この時代(平成の初頭)に青春を過ごしているという主人公たちというのは、昭和の終わりを子供時代に持つ世代でもあるということ。つまり、昭和と平成に渡ってその空気感の中を生きた人たちである、ということです。
もうすぐ平成が終わろうとしている今、昭和と平成という時間のノスタルジーを様々な形で書き残そうとするセンチメンタルが、多くの共感を呼んでいるということ自体に、私は強い感動を覚えたのでした。
【関連】
『雪子さんの足音』木村紅美(著)