『文字移植』
多和田葉子(著)
(講談社文芸文庫)
「わたし」は、友人の内科医の所有する家がある、カナリア諸島にやってきた。
仕事で小説を翻訳するために、友人の家を作業場として使わせてもらう目的で。 |
本作は、『かかとを失くして』『三人関係』と共に、文庫本に所収された多和田葉子さんの初期のころの作品です。
当初は『アルファベットの傷口』という題名でしたが、後に『文字移植』と改題されました。
改題の経緯は、文庫本のあとがきで作者自ら説明されています。
それによると、作中で語り手の「わたし」が翻訳を手掛けている作品の日本語訳(作者流に訳したもの)が、『アルファベットの傷口』となるのですが、実在するアンネ・ドゥーデンという作者による作品であり、多和田葉子さんの作品が同名で発表された後、アンネ・ドゥーデン自身も作品集を刊行してその題名にもなったので、改題する運びになったようです。
こうしたエピソードも含めて、翻訳という作業のリアルな感触がする作品だったと思います。
「わたし」という語り手が綴る地の文には読点がなく、それと対照的に、時折地の文に前後の繋がりもなく挿入されてくる訳文の方は、一単語ごとに読点が打たれ、バラバラに解体されたような形で、文法的な入れ替え作業をされることもなく、乱暴な姿で記述されています。
文法的に整理されていない単語一つ一つが、読み手に意味を投げかけてくるのですが、不思議と読めてきてしまう。
読点もなく長く続く地の文がそれほど読みにくいというわけではないのですが、なぜか乱暴に解体された訳文の単純さに脳が慣れてくると、不思議と地の文の文法的な複雑さが、煩わしいかのようにさえ感じられてきてしまう。
訳された言葉は、私の頭の中で単語単位で咀嚼され、やがて物語の輪郭のようなものを持ちはじめる。それが元々の原文と比べて、正しい姿なのかどうなのか分からなくても、確かに私の頭の中では、物語が作られようとしてくるのです。
そんな感覚を味わいながら、翻訳をメタモルフォーゼ(変身)のようなものと書かれたくだりを読むと、感慨深いものを覚えました。
言葉が変身し物語が変身し新しい姿になる。(『文字移植』より)
翻訳という普段はやらない作業を、肌感覚の近さで感じられる作品だったと思います。