『三人関係』
多和田葉子(著)
(講談社文芸文庫)
本作は多和田葉子さんの初期を代表する作品で第5回三島由紀夫賞の候補作になりました(同賞はこの年、受賞者なしという結果でした)。
主人公の「私」は、会社勤めをしている女で、「三人関係」という奇妙で危うい関係に、憧れを抱いています。
「三人関係」というのは、三人の男女の関係なのですが、いわゆる「三角関係」とは違います。
理想的な三人関係というのがどういうものかは分からないのですが、”つかみどころがなく、ぼんやり、ゆったりとした関係。誰が誰と結びついているのか、わからないような関係”なのだそうです。
男女の恋愛のほつれた結果、ありふれたメロドラマへと展開する「三角関係」とは、全く別次元の関係のようです。
「私」の勤めている職場にアルバイトとしてやってきた大学生の綾子が、自分と同じく女流作家(秋奈)の愛読者だと知り、さらに女流作家の夫(稜一郎)が綾子の高校時代の美術部の担任で繋がりがあることを知ると、彼女を通して、秋奈、綾子、稜一郎という人物たちの織りなす「三人関係」をつくりあげようとします。
綾子に三人の間で何が起ったかを語らせ、そこからさらにイメージや妄想を膨らませていくのです。
やがて綾子を通して進行していた三人関係の物語は、「私」の日常で大きな意味深いものになっていきます。
そもそも、「私」が身を置いている世界は、どこか硝子のように透明で生きた手触りを感じさせない冷たさがあり、その世界で生身を持て余した「私」もまた、コピー機の中の住人のように、なんだか空疎な存在であります。
人間の肌の質感にさえ透明なイメージが投影され、職場ですれ違う多数の似通った肌の中で、綾子だけが違っていて「私」の目をひきます。
”土をこね合わせて焼いたよう”と表現される、綾子の肌の不思議な質感は、「私」の興味の対象となります。
こうした描かれ方をする人物を想い浮かべることで、どこか印象派の絵画のような世界が立ち上がってくるような気配がします。
また、人物や駅や路線や公園の名前などが、どこか奇妙な繋がりや連想を起動する仕掛けのように嵌めこまれていて、小説が空間として立体的な広がりを持ちはじめます。
つまり、質感と奥行という絵画的な領域のものが、言葉によって喚起され、演出されているように感じられるのです。
そして、小説はさらにもう一つの広がりを持ちます。
それは――”物語”。
「私」という語り手が生みだす、現実と妄想と虚構がシンクロした、稀有な物語の世界です。
全て真実だけを語っているとは限らない信頼性のない「私」という語り手の渇望でもある「三人関係」の物語は、つかみどころもないままに怪しく展開されていきます。
現実とは違うもう一つの現実が、確かな手触りのある質感と奥行きを持ちながら、一人の女の妄想の中で育ち続けている、というイメージ。
全てが妄想であり虚構かも知れなくて、それでいて全てが真実であるかもしれないというあやふやさに、物語が常に揺れている感じがして、その感覚こそが「三人関係」の微妙でつかみどころのない感触と重なっていたように思いました。