かかとを失くして 三人関係 文字移植 (講談社文芸文庫)

第34回群像新人文学賞受賞作品

『かかとを失くして』

多和田葉子(著)

(講談社文芸文庫)

 

 

この作品は、1991年に群像新人文学賞を受賞した作品で、このとき著者はすでにドイツで詩集を発表していました(ちなみに、現在はベルリンに在住のようですが、当時はハンブルグに住んでいたようです)。

列車に乗って国境を越え、書類結婚した男の家を訪ねてきた「私」は、駅のホームへ降りようとしたとき、けつまずいて転倒してしまいます。この冒頭から既に、物語は不穏な気配に包まれています。

「私」は、駅前の通りから脇道に入ったところで、路上で遊んでいた子供らにかかとを笑われます。

なぜ笑われているのかも分からずに、そわそわとした気分に囚われていく「私」が感じていたものは、見知らぬ土地での孤独感の象徴のようでもあります。

しかし、「かかと」とはなんだろうか、と思います。

物語の中で「私」は始終、自分のかかとを気にしています。

かかとを失くしたかもしれないと不安になり、かかとを失くしているかもしれないことを周囲に隠そうとしたり、それを知られて笑わているようにも感じたり、でも確かに自分がかかとを失くしたと確信することはありません。

かかととはおそらく、存在の拠り所になる重要ななにかではあるのでしょうが、なぜか掴みどころのないものでもあるようです。

ストーリーを追いかけると奇妙ですし、まるで夢の中で御伽の国をふわふわと漂っている気分にもなり、心地よくもあり、心地悪くもある。そんな小説だったと思います。

カフカや安部公房の小説にも近いと感じましたが、言葉を重視しているという点では、詩に近いという印象もあります。

一つの単語や一つのセンテンスが指し示すものは、一つの情況や一つの感情ではなく、連鎖的に複合的な思惑が絡まり合って、反響してくるような感覚。

言葉とは、たった今紙面に書きつけられたばかりの言葉であっても、その奥には古典作品から積み重なってきた多くの情報があって、核心を書かなくて周辺で匂わせるだけでも、何かしら意味深な連想や寓意を連れて来てくれるものなのかもしれない。

そんなことを、この作品を読みながらずっと考えていました。

最後に出てくる死んだイカに、どれほどの寓意があるかというよりも、そもそも何らかの寓意を持たせなければならないかのような固定された感覚を、煙にまくほどのことだったのではないかと、私個人は感じています。

さらに言うと、異国の地で書類結婚した孤独な女が、夫である男の姿とはじめて対面するべく飛び込んでいった先に、がらんとした灰色の部屋の真ん中でひっそりと死んでいたイカを発見する、というシュールな絵を想像することは、そのこと自体が劇的なことでもあるし(この小説と出逢ってなかったら、おそらく一生出逢わないであろう光景ではないかと)、一つの詩でもあると思います。