『サーラレーオ』
新庄耕(著)
(『群像』2018年5月号に掲載)
日本を追われるようにバンコクに流れ着いてきたおれは、売人をしながら現地で知り合った恋人アナンヤと暮らしていた。そこへ、十代のころに地元でよくつるんで遊んでいた友人のマサから連絡がくる。
出張でバンコクに来ているから、食事でもどうかという。 迷った末に、おれは会うことにした。 旧友との再会は、思いのほか楽しい時間だったが……。 |
『狭小邸宅』で、第36回すばる文学賞を受賞して、デビューされた新庄耕さんの中篇小説です。
薬物、暴力、性。描かれているのは、かなり衝撃的な内容ですが、単なるピカレスク小説の部類と一括りにできない、濃密な人間描写が光る作品だったと思います。
語り手である主人公の男は、元々はごく普通のサッカー少年だったのが、次第に非行に走り、高校を中退し、やがては薬物犯罪に手をそめて、ついには警察に追われる身となって、バンコクに渡ります。
偶然なのか、意図的だったのか、彼が選んだ逃亡先のバンコクの、躍動的で生命力の溢れている感じがとてもよく描写されていて、鬱屈を抱えて生きている男の魂のどこか深い部分と、共鳴しているような印象を受けました。
語り手の「おれ」は、薬物や暴力に身を持ち崩して日本という社会から零れ落ちてしまった、そんな特異な経歴の人物のようですが、その内面の感覚はなぜか自然と理解できます。
十代のころに悪童仲間だったマサが、大人になった現在はサラリーマンとして普通の世界に生きているように、何らかのきっかけやちょっとしたボタンの掛け違いがなければ、彼もマサと同じような立場の人間として生活していたのではないか、と思えるほどに、彼は特異な状況の人生を歩みながらも、なおかつどこか「普通」なのです。
これは、人間を描くことに、作者が徹底して向き合った結果だろうと思います。
「おれ」という人間は、特別に聖人でもない代わり、特別に冷酷なわけではないし、やや喧嘩っ早いところはあっても残忍なほどには暴力的でもないし、自制心を失くすほどには薬に溺れているわけでもありません。
利己的で出世欲金銭欲があり、虚栄心があり傲慢で、刹那的で、どうしようもなく愚かではあります。
ただし、彼が持つ利己心や出世欲金銭欲、虚栄心云々……といったものは、たいていの人間が持っているものとそう大差ないように見えますし、そういう意味では普遍的な愚かさの範囲ではないかと思われます。
その一方で、情況がどうであれ、彼がしぶとく「生きる」ことに執着しているという一貫性が、さらに生命の普遍的な力でもあるように読めてきて、その普遍性の内在された場所として、バンコクという地が描かれているという気がします。
確かに暴力的で、露骨にセックスは描かれ、反社会的な臭気にまみれていますが、ただこの小説には噓の温度がない。というのが、この作品を読んだ、一番の感想です。