『地球星人』
村田沙耶香(著)
(『新潮』2018年5月号に掲載)
小学5年生の奈月(「私」)は、同い年のいとこの由宇と、毎年祖父母の家で、お盆にだけ会えることを心待ちにしていた。
二人は恋人同士であることを周囲に隠していたが、それ以外にも、誰にも話していない二人だけの秘密があり……。 |
『コンビニ人間』で第55回芥川賞を受賞した、村田沙耶香さんの新作です。
幼い少女と少年の恋。意外と爽やかな感じではじまったな……と思いつつ読み進めていくと、徐々に村田沙耶香さんらしい不穏さに包まれていきました。
客観的な視点である「宇宙人の目」を持つに至る、奈月の側から世界は描かれます。
主人公の奈月は、幼いころから世界に対する違和感を持っていて、それは成長するほどにはっきりとした認識へと繋がっていきます。彼女は、この世界を「工場」だと捉え、自分を世界の「道具(部品)」だと考えるようになっていきます。道具としての役割は二つ。
一つは、労働。
一つは生殖(増殖)。
特に本作では、「生殖」ということに重点を置いて書かれているという印象を受けました。
男女が恋愛し、結婚し、やがて出産する、という一連の流れを奈月の視点からみると、すなわち「生殖(増殖)」となるわけですが、多くの人間が何の疑問もなくこの仕組みを受け入れていることに、彼女は違和感を抱き続けます。
ある一つの社会の内側にいて生活していると当たり前の感覚としてあるものが、いったんその外側にはみ出した場所から改めて見つめてみると、ものすごく不思議な生態に見えてしまう。人間から見たら、アリやミツバチやミドリムシの世界は、驚異でしかないのと同じように。
この客観的な視点の存在こそが、この作品の要になっていて、「コンビニ人間」にも通じるものがあると思います。
ただし、自分の存在を社会の部品だと認識することで、むしろ生きている意味付けにしていた『コンビニ人間』の主人公とは、近いようで真逆な視点が生み出されていると言えるのかもしれません。
『コンビニ人間』では、自分を社会の部品とする世界を淡々と受け入れている気配がして、「普通」であるということを客観的に捉えながら尚且つ「普通」であることの不気味さを提示し、その上で他者の姿や行動を真似ることで「普通」に紛れ込もうとする、そんな主人公の姿がありました。
そこがシニカルで面白いとさえ思ったのですが、今回の作品では、むしろその「普通」に疑問を投げかけているようです。
少なくとも、自分はそこに従わない、とする強固な意志が感じられます。
ラストに向けて、凄惨な場面へと繋がっていく展開は、多様性を認めない社会への皮肉でもあったかもしれません。
女は結婚して子供を産むべき。人間は労働して社会に貢献するべき。これと反対のことを言う人間を、社会の大勢は、排除するか、もしくは同情するか、ではないでしょうか。
例えば、自分は生涯子供を産まないということをごく当たり前の選択として考えている女性がいたとして、その「当り前」をどこかで誤認してしまう社会の圧力が、確かに存在し続けているという気がします。これは、働くことに後ろ向きな人間に対しても、そうではないでしょうでか。
逆に言えば、これこそが地球星人としての、人間の本性だと言えるのかもしれません。
本作では、宇宙人である側の主人公たちが、どんどん狂気じみた方向に進んでいるように見えますが、その一方で、それをそのままひっくり返して裏側を読んでみると、地球星人の異様さがひしと伝わってきて、どうにも不気味なのです。