『塔と重力』
上田岳弘(著)
(新潮社)
「僕」(田辺)は、17歳のとき、予備校の仲良しグループで出かけた旅行先のホテルで、阪神・淡路大震災に遭遇する。生き埋めになるが、救助され、一命をとりとめた。
だが、当時恋人になりかけていた少女(美希子)は、同じく生き埋めになり、死んでしまう。 その後、上京して大学に進み、卒業後は二年間のフリーター生活の後、友人の紹介で起業間もないベンチャー企業に就職する。が、まとまった金が入れば、退職することも考えている。 そんな田辺は、大学時代の友人、水上と再会する。卒業後、交流が絶えて15年が経っていたが、Facebookを通じて連絡がきたのだ。 水上は、どこか「僕」と似ていて通じるものがあり、学生時代は合コンを極めることに全力を注いでいるような男だった。「神ポジション」なる視点から、物事を語り出す特徴がある。一度、「僕」の前で自殺未遂(?)を起こしたことがあり、そのとき救急車を呼んだ「僕」を、「創造主」などど呼んだりする。 水上は、「僕」=「田辺」を主人公にした小説をFacebookに載せていて、作中には美希子も登場する。 再会後の水上は、かつて合コンに明け暮れたころのような手腕で、なぜか、「美希子アサイン」なる意味不明なセッティングをして、様々な女性を「僕」に紹介してくるようになる。 相手の女性たちは、「美希子」とは全く無関係でなんの繋がりもなく、事情もろくに説明されぬままに連れてこられているらしい。 はじめは当惑するも、そのうちに合コンの類として、「僕」はそれを楽しむようになる。 |
本作では、「僕」という主人公田辺の視点で描かれるパーツと、Facebook上で書かれた水上の小説のパーツとで構成されています。
上田岳弘さんといえば、『太陽』や『惑星』といった作品でみられるような、「神」的に巨大な視点が特徴的だと思うのですが「僕」のパーツでは、これまでの巨大な視点は封印され、これをそのまま受け継いでいるのが、水上の小説のパーツです。
神的な視点から世界を見下ろしながら、その見下ろしている神的な視点を客観視する、地上の「僕」がいるわけで(しかもこの地上の「僕」は、非常に浮遊感を漂わせている)、この構図は新鮮で、とても面白いと思いました。
上田岳弘さんの、新境地が読めた作品だったな、という感じです。
作中には、Facebookや他のSNSのツールで繋がりあう現代人の交流風景が多様に描写されていて、肉体と乖離した形でも存在しうるネット上の”個”の姿が、印象的でした。
人類の文明進化の過程に、ソーシャル・ネットワークという連絡網が出来て、それが個人同志の垣根を超えた情報や精神世界の共有を産みだしたわけですが、これがさらに進化していけば、やがて人類は肉体と乖離した場所で、共有された(一本化された)意識を生きる、という現実も、まんざら作中だけの話では終わらないかもしれません。
そこでは自分と他者、自分と世界全体との区別は曖昧になり、正しく”座標”として永遠に存在する存在となり、時空の感覚も失われてしまうのでしょう。
それは、人類が知的生命体として望む最終的な到達地点なのかもしれませんが、一方ではアイデンティの崩壊でもある気がします。
重力というのは、これに抗うかのように存在する、実態としての肉体、その重み、だと解釈しました。
このどうにもならない重さの中に、人類の抱え込んだ様々な厄介ごとやしがらみがあるわけですが、そこには「愛」や「生」の実感もあるのですし、それらはすべて”個”と結びついて、良くも悪くも、未来を形づくるはずです。
様々なことを考えさせられました(”個”の視点からと、”神”の視点からと)が、ラストには、やはり希望があると感じました。