文學界2017年5月号

第122回文學界新人賞/

 第157回芥川賞候補作品

『影裏』

沼田真佑(著)

(『文學界』2017年5月号掲載)

 

東京の親会社からの異動で、盛岡市郊外に移り住むことになった主人公の「わたし」は、同僚の日浅と知り合い、釣りを通じて親しく付き合うようになる。

だが日浅は、「わたし」になんの断りもなく、会社を辞めてしまった。

4ヶ月後、再び現れた時には既に転職していて、会員獲得が主な業務であるノルマの厳しい仕事をしていた。そして、以前とは雰囲気の変わった日浅がいた。

8月の終わりに再び会った時には、契約の話を持ち出される。言われたとおりに書類に記入した「わたし」は、前回会った時には、日浅がこの話を持ち出せなかったということに思い至り、自分の鈍さを呪う。

日浅とは、また釣りを楽しんだりもしたが、再び会わなくなる。

そして、震災が起き、日浅が死んだかもしれない、という話を聞く。

枚数的にはかなり短い作品なのですが、簡単に読み終わることが出来なくて、また読み終わった後も、振り返って確認したいことが出てきて、何度も頁を捲りなおしたので、ずいぶんと時間のかかる読書になりました。

釣りを通して親しくなった男同士の関係を描いた作品で、主人公「わたし」の視点で描かれています(釣りの描写は、秀逸です)。

「わたし」は、日浅という、一風変わった友人を、様々な角度から観察し続けます。

日浅というのは、「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできて」いる男で、そんな日浅に「わたし」は、どこかで惹かれている(少なくとも面白いと思っている)ようです。

やがて、物語の後半で、日浅自身が「大きなものの崩壊」である震災に巻き込まれてしまうわけですが、そこに生じる「喪失」には、何とも表現のしようのない感情が伴われてきて、不思議な感覚がしました。

ここで、『影裏』という題名について考えてみます。

電光影裏に春風を斬る”という、禅語があって、これは無学祖元禅師(鎌倉時代の臨済宗の僧)が中国にいた頃、自らの首を斬りにかかった元の兵士に向けて放った言葉の一部です。この言葉にはもう少し前置きがあるのですが、そこも含めて要約すると”この世の全ては空であるから私を斬っても稲妻がひらめく間に春風を切るようなものだ”というような意味が込められています。ここでいうところの「影」とは光のことです。

が、「影裏」と、この二文字だけを切り抜いて表記すると、光というより、影そのものである印象が強くしてきます。そして、その印象はそのまま、日浅という脆くて不穏なものを抱え持つ男の印象とも重なって見えます。

そもそも、日浅という男は、周囲から理解されにくい、マイノリティ(少数派)として存在していて、実の父親からも理解されずに疎んじられています。

なぜそうなったのか、という部分は、客観的な事実や伝聞から、こちらが想像するしかありませんが、その「死」を、純粋な「喪失」として、素直に悲しまれることのない存在として、歪に、哀しく、浮き上がってきます。

なにより残酷だと思うのは、震災という巨大な悲しみの中でさえも、「普通には悲しめない、もしくは悲しんでもらえない」という、特殊な哀しさがあるのだということ。そして、作品は、悲しむべきことをちゃんと悲しめる多数派でない人々の、「哀しみ」に、光を当てています。

冒頭から常に不穏で、やがて何かが壊れそうな不吉な予兆めいたものを湛えながら、どこか温もりを感じられていたのは、そこに語られることのない作者の「愛」が隠されているから、と言えるのかもしれません。

本作には、「本当に大事なことは、直接的な表現では、あえて書かない」いう、作者の強い意志を感じました。

優しく読みやすい文章、それでいて難解、というより、実に意味深でミステリアスである、と思います。

視点が主人公の「わたし」であり観察者としての立場を崩さないことで、「わたし」という側の抱えている問題や心の動きが見えにくいのですが、これも、あえて隠されたことの一つなんだと思います。

もしかすると、男同士の友情と見せかけて、一つの恋愛の形を描いた作品なのかもしれない、と想像することもできて、そうではない読み方もできます。

読み手に色々なものを委ねてくれている、そして、慎重に読み返すと、様々な手掛かりが巧妙に散りばめられていて、そこに気付くたびに、新しい驚きがある作品でした。