第119回芥川賞受賞作品  『ブエノスアイレス午前零時』  藤沢周(著) (河出書房新社)

 

東京で広告代理店に勤めていたカザマは、仕事を辞め、故郷である雪国の町に戻り、温泉旅館(「みのやホテル」)の従業員として働く。

一帯の旅館業は、スキー場のある上越に客をとられて寂れている。「みのやホテル」には、ダンスホールがあり、ダンスプランでやってくる団体客が主な収入源になっている。

温泉卵ばかり作っていてすっかり硫黄臭くなったカザマは、時々、東京で暮らしたころと現在を比べて暗澹となる。

ダンス目当てでくる客は、ほとんどが50過ぎの男女で、その派手な衣装や化粧といった装いと、加齢による醜悪さの組み合わせにもうんざりしている。

そんな時、遠目には若い女に見えたサングラスの老女ミツコと出会う。

彼女は、ダンスプランでやってきた団体客「サルビア会」の一人だった。

ミツコは盲目で、意識が正常でない時もある。旅行は、妹のヨシコに連れ出されて、参加したようである。

他の同行の客たちからは、「外人相手のお座布団屋」などと揶揄され、「梅毒」が原因で目が見えなくなった、とまでも言われ、冷ややかな扱いを受けている。

ミツコはカザマに、「温泉卵のにおいがする」と言い、亡くなった夫は肺ガンだったと話し、場末で殺される天使の話をし、梅毒ではなく糖尿病で目を患ったと言い、ブエノスアイレスに知り合いがいると言う……。

真実なのか噓なのか妄想なのかも分からない、ミツコのとりとめのない告白。

カザマは、ミツコの老いた姿に嫌悪感を抱きながら、同時に惹かれてもいった。

 

藤沢周さんは、『ゾーンを左に曲がれ』で、1993年に作家デビューされていますが、それ以前は書評誌『図書新聞』の編集者をされていたようです。(ちなみに、芥川賞を受賞されたのは、1998年のことです)

新潟出身です。

本作の舞台である雪国のイメージは、体感として持たれているものなのでしょう。

かつては上品な華やかさで若者を虜にしたのであろう、しかし現在では高齢者の娯楽として、すっかり時代遅れとなったモダンダンスと、同じく時代に取り残されてしまったような陸地の孤島のような北国の温泉街、という取り合わせ。

過去と現在、醜と美、若さと老い、喧騒と沈黙、南米と雪国。

豪雪に閉じ込められたような重苦しい世界の中で、様々なコントラストが幻想的に舞い踊っている、というのが、作品を読んだ素直な印象です。

そして、これらのコントラストの中で、雪国とブエノスアイレスを繋ぎとめているのは、一人の目の見えない老女の、正常かどうかもわからない、曖昧な記憶と言葉だけです。

主人公には、背景があります。

カザマの実家は、町で唯一の豆腐屋を営んでいますが、店を継ぐことに興味のない彼は、実家から離れて暮らし、本意ではないであろう旅館の仕事をし、東京での暮らしを思い出します。

その心の内は、とても暗いものですが、それはじっと奥底に閉じ込められています。

なにか希望のようなものを抱いているようにも、輝かしい人生を望んでいるようにも見えませんし、怒りや悲しみといった強い感情的なものは感じられません。

そこにあるのは、閉塞感のようなものだけです。

そしてラストの幻想的なダンスの中で、背景だった人生そのものが、いつのまにかどこか遠いところに滑り落ちてしまって、刹那的な輝きだけが残された印象でした。

それはなんだか、とり残された哀しいものであるような気もするし、現実を超越した「愛」にも似た感覚でもあるようです。

確かに、美しいと思いましたが、「感動した」と言えるほどの感情移入は出来ませんでした。

女の抱えた哀愁も、カザマという主人公の心の高ぶりも、なんだか遠い異国の出来事みたいな印象です。

そういえば、ミツコとカザマのダンスを見守る周囲の人々の視線の形容が、「まるで異国の人間を見るよう」とありました。

彼らの視線と、読者である私の視線は、微妙に近い所で繋がってしまいました。そこにもきっと、なにか意味があった気がします。