グランド・フィナーレ (講談社文庫)

第132回芥川賞受賞作品

『グランド・フィナーレ』

阿部和重(著)

(講談社)

 

 

主人公の男(「わたし」)は、東京で教育映画を作成する仕事に就いていたが、娘の裸の写真を撮ったことが原因で妻と口論になる。その際、妻に怪我をさせてしまった為、離婚されて親権も取り上げられてしまう。あげくに、自らの性癖であるロリコンが長じて手を出した児童ポルノの副業がばれて、仕事を首になる。

故郷の山形に帰るが、娘の誕生日に合わせて上京し、娘と再び暮らせるための計画を練る。その計画が失敗に終わると、ひとり山形に帰り、実家の文房具店の店番をやりながら、欝々と日々を過ごす。

そんな時、小中学校時代の同級生で現在は小学校の教師になっていた男(黒木)に頼まれて、学校の記念行事でやる劇の指導役を引き受けることになる。(一度は断るが、ある少女たちに出会うことで、考えが変わる)

彼が指導するのは、亜美麻弥という少女二人。

亜美は、兄が殺人事件を引き起こして逮捕されていて、周囲から虐めにあっている境遇で、卒業と同時に遠方に引っ越すことが決まっている。麻弥は亜美と仲が良く、二人は離れ離れになる前の、最後となる劇を成功させようと、熱意に満ちている。

一方で、少女たちは、思い詰めたものを押し隠しているようで、ある時には「自殺マニュアル」というサイトをこっそり閲覧していたりもする。

そんな中で練習を重ねた劇が、今、幕を上げた。

 

少女らが演じようとしているのは、「勿忘草」にまつわる、悲劇の物語で、恋人の為に花を摘みに行った男が川に流されてしまい、水中に没する前に最後の力を振り絞って花を川岸に投げ、『僕を忘れないで!』と叫んだというもの。残された女の方は、その言葉通り、死んでいった恋人のことを想いながら独り身で一生を過ごす。

この物語のもう一つの悲劇性として、主人公の「わたし」は、死んでいった男より、残された女に一方的に強いられた忘草」の呪縛について想いを馳せます。

これは、常に正しい人間であり、正しい行動をとることを強いられることへの、「わたし」の内なる反発であるともとれます。

何故ならば、この「わたし」という男は、娘を深く愛する一方で、その裸体を写真に納めたり、また自分の娘以外の子供たちのそうした写真を大量に撮りためていたり、それどころか少女の一人とは肉体関係まで持つなどし、時には快楽を求めてドラッグをやったりもするなど、とても「正しい」ことから外れてしまっている人間だからです。

「ロリコン」という、一般的には(道徳的に)社会から認められていない性癖を持つ男の内面を、ただ単純に「気持ち悪い」存在として定型化された「悪」として捉えるのではなく、より複雑化した人間性を持つキャラクターとして描いているところが、この作品最大の読みどころでしょうか。

「わたし」の抱えた「疎外感」や、少女たちへの罪の意識、娘に対する愛情といった様々な感情が渦巻いて渾沌としている感じは、一人のどうしようもないロリコン男を、どこか影のある存在として、妙に「カッコよく」も見せたりします。

子供を愛する者と傷つける者とが、一人の人間の中に矛盾なく存在し続けているという矛盾も、興味深く読みました。

その「わたし」の心の波動が、切実な「悲劇」を抱え込んでしまった少女たちの純粋な暗部とどこかで繋がっているような気配がします。

最初から最後まで、不思議と共感できない作品でしたし、やっと盛り上がるはずの場面でいきなり打ち切りに持ち込んでいるところは、なんとなく狡い気もして、ここでも共感できませんでした。

けれど、「幼く無垢な者への愛」に捕えられた男の、悲劇の物語としては、なかなかよく出来ているのかな、という気もします。