阿修羅ガール (新潮文庫)

第16回三島由紀夫賞受賞作品

『阿修羅ガール』

舞城王太郎(著)

(新潮文庫)

 

 

 

女子高生のアイコは、「減るもんじゃねーだろ」と言われ、好きでもない佐野とセックスをして、結果、自尊心を減らし、傷ついた。アイコは、佐野を足蹴りにしてホテルに置き去りにしてしまう。

翌日、理由も分からぬまま、学校の女子たちにトイレに呼び出されリンチされそうになる。そこで、佐野が行方不明になっていることを知る。

佐野の指が、両親の元に届けられて、身代金を要求されているという。

アイコは、小学生の頃から思いを寄せている金田陽治と共に、佐野を探すことにしたが、それは陽治の気をひくためでもあった。

一方、街では連続殺人犯『グルグル魔人』が暗躍していて、それを『天の声』なる匿名掲示板が煽りたて、ちまたでは中学生狩りが横行し、アイコの自宅周辺はアルマゲドンのような様相に。そして、アイコは……

三島賞の選評では、宮本輝さん一人だけが、この作品に納得がいかなかったらしく、受賞に反対していたようです。

その理由としては色々と挙げていますが(下品で不潔な文章と会話が続くこと、ときおり大きな字体のページがあること、おもしろくない、等など……)結局のところ、まだまだ作者の資質が未熟で、こんなもの文学として認められない、というところでしょうか。

これに対して、同じ選考員の島田雅彦さんは、「ブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品」だと評し、宮本輝さんが「×」を付けたことに言及し、「それに勝る批評はない」とおしゃってて、なるほど、そういうこともあるのかな、と思いました。

つまり、この作品は、宮本輝さんのような作家に否定されてこそ本望、ということでしょうか。

私個人として、確かに作品全体を覆う「不潔感」にかなり圧倒され、拒絶反応を感じながら、一方では、この「不潔感」こそが、世界のリアルなのかもしれない、とどこかで思っていました。

それは、女子高生アイコの直球的なガールズトークゆえのリアルというだけでなく、もっと根底にある真理ーー「宇宙」そのものが持つ「邪悪さ」だったり「生命力」だったり「狡猾さ」だったりーーのリアルを捉えているからではないでしょうか、と。

そういう万物に宿る根源的な「生」の感覚が、いっけん軽薄そうな女子高生アイコという人間の中にも宿っている(と言うことは、犬や猫や虫や草木やいろんなものにも当然)ことを、暗に伝えようとしている、と感じました。

(それにしても、作中にあんな大きすぎる文字を投入する必要は、あったんでしょうか?)

作品は三部作になっていて、第二部になると、第一部の世界のパラレルな内臓部分を覗きこむような感覚でした。

まるで冥界のような場所でさ迷うアイコがいて、危うく三途の川を渡りかけたり、アイコのもう一つの人格ともとれる「シャスティン」が森をさ迷ったり、グルグル魔人の主体で世界を描いたり……。

そして第三部で、いろんな体験をしたアイコが、グルグル魔人について(彼が人間の死体で作ろうとした阿修羅像についてなど)や、命や仏や自分のいる世界について、様々なことを想う、というもの。

三部の結末の落としどころが、一部と二部で描いた混乱をきちんと受け止めていて、そこに大きな「愛」を模索している気配がして、結局、そんなに「不潔」な作品でもなかったのかな、と最終的には思いました。

作中に随所出てくる映画情報や、映画にインスピレーションを受けているような箇所には、ずいぶんと心惹かれるものがありました。小説の中に、映画や漫画の要素をふんだんに取り入れていて、しかもそれが主人公であるアイコの精神世界と深く繋がっている感覚がして、そこが何よりも気に入りました。