第154回芥川賞受賞作品 『死んでいない者』 滝口悠生(著)(文藝春秋)

 

一人の老いた男が死に、その子や孫や曾孫ら一族が集結した、葬儀の一夜の物語。

この作品は、三人称多元で書かれていますが、一般的に「神の視点」と言われる三人称多元とは、どこかが違っています。

語り手がはっきりと「神」であるなら、そこにもはやなんの疑いも憶測も差し挟む必要はないはずですが、いったいこれは誰の視点なんだろう? とつい考えてしまうような、「神」よりももっと人間に近く、けれど人間の視点の能力をはるかに超えた、不気味で変幻自在な不思議な「何か」です。

一瞬、故人が魂になって天空から自分の葬儀を見下ろしているような、そんな気もしてくるのですが、また別の瞬間には、この物語に登場する一族全員の意識の集約されたもの(複数の魂の合体化したような)「何か」なんじゃないか、とも思えます。

それは、複数の人物たちの意識のまわりを、語り手がふわふわと浮遊していて、時に特定の人物の上に舞い降りてきて物語を膨らませては、その断片だけをいたずらにまき散らして、さらに浮遊を続けて別の人物の元にも舞い降り……ということを繰り返すからでしょうか?

ストーリーを作りげるよりも、むしろ作者は、この浮遊感を楽しんでいるかのように感じられます。

自在な視点移動というのは、滝口悠生さんの作品の特徴でもありますが、ただ視点が移り変わるだけでなく、複数の視点が交錯していくうちにまるで作品の中を一つの「生命」が誕生してくるような気がするんです。

それが何であるかをうまく説明することが出来ないのですが、例えば本作だと、葬儀に集った彼ら一族が奏でる、時空とか世代とか個の垣根すら乗り越え融合された、荘厳な音楽みたいなものです。

彼らは一人一人タイミングも場所も奏でている楽器や曲もてんでバラバラだったりするのに、なぜかちゃんと合奏として知らずの内に成立してしまっている、とかいうような感じ。(もちろん、作中で彼らがそんな合奏をしたわけではありませんが……)。

バラバラに動いている個々の生命と生命の間に、目に見えない血管のようなものか、あるいは神経網のようなものが通っていて、無意識下で繋がっていたりするのかな、そんなことを勝手に考え入りながら、この作品をずっと読んでいました。

ちなみに、本作は芥川賞の選考の場では、ほとんどの選考委員が肯定的な意見で指示していたのですが、村上龍さんは、この作品最大の特徴である”「作品の視点・語り手の所在」を曖昧にして、多くの登場人物の言動や記憶を、おそらく意図して、並列的に描くこと”(注1)に、意義を唱えています。映画のカメラポジションにおける規則性が、小説においても当てはまるのではないかとしているのです。(※詳しくは、『文藝春秋』2016年3月号の芥川賞選評をお読みください)

この意見は、滝口悠生さんの作品を最初に読んだとき、ほとんど同じことを感じたので、物凄くよく分かります。けれど、何作か他の作品も読んでいるうち(それは『寝相』や『わたしの小春日和』などを読んでいた時ですが)考えが変わりました。

確かに、滝口悠生さんの作品は、ある角度からみると、かなり破綻していて、本来あるべき規則性を無視しているかのような一面があると思います。

けれど、規則性の中にはめ込むと、途端に窒息して死滅してしまうような、細やかな感覚もあるんじゃないかと思うんです。

滝口悠生という作家は、そういうものを描こうとしているという気がします。

 

※(注1):『文藝春秋』2016年3月号の芥川賞選評より、村上龍さんの言葉を一部抜粋して、そのまま引用させてもらいました。

 

【同時受賞作品】

異類婚姻譚

『異類婚姻譚』

本谷有希子(著)

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