灰色猫のフィルム

『灰色猫のフィルム』

 天埜裕文著

(集英社)

(第32回すばる文学賞受賞作品)

母親を刺殺した「」は、町を出て、無一文の状態になりながら逃亡を続ける。

公園で寝起きする生活をしていたが、親切なホームレスの男「ハタさん」等と出会い、彼らと河川敷の小屋で生活する。

ハタさんが飼っていた灰色の猫が殺されてしまうまでは……。

作者の天埜裕文さんは、携帯で10ヶ月かけてこの作品を書き上げたそうです。

冒頭から既に、主人公の「僕」は殺人を犯していて、しかもそれは自分の母親です。

なぜそうなったのか、という経緯は一切語られることはなく、不条理な自我を抱えたまま、町をさ迷う「僕」は、犯罪者というよりも、傷ついた心を持て余す小さな少年のようです。

ホームレスのハタさんや、ハタさんの可愛がっている猫(「ゴウ」)との交流が、どこかほのぼのとしていて、つい彼が殺人犯だったことを忘れてしまいそうになります。

けれど、その度に「僕」という自我(もしくは記憶)が起き出してきて、母親を殺したという冒頭の痛みまで引き戻してしまうので、その度にはっとさせられます。

自分が殺人を犯してしまったり、それまでの普通の生活をある日突然に失ってしまうなどということが、こんなにもリアルに、こんなにも当たり前なように、すぐそこにあるのだという現実と、背中合わせに存在する「僕」の世界が、言いようもなく恐くて、そして寂しいと思いました。

最初から最後まで、どこにも救いようがないのだ、という諦念がある気がして、そこが非常に引っかかりました。

そもそも母親を自らの手で殺してしまったという段階から、この「出口なし」な世界ははじまっていて、そして作者はそもそもここから抜け出すつもりもないのだという印象です。

唯一の救いは、ハタさんの猫や迷子になった少女に対する「僕」の視線が、どこか優し気であること。

これは、微かな記憶の澱のように「僕」の中にあるイノセント(無垢)な心との繋がりであり、共鳴であるという気がします。

これに対して、公衆トイレでの不潔極まる描写が頻繁に出てくるのは、醜悪なものの象徴であり、そのような心の状態を反映しているかのようです。

醜悪で繊細で哀しくて、そしてどこか妙に透明で孤独な作品でした。