「太陽」
上田岳弘(著)
(第45回新潮新人賞受賞作)
アフリカに「赤ちゃん工場」なる非人道的な施設があるとして、国連組織が調査団を派遣した。
参加したのは、春日晴臣(大学教授でありながら月二回、デリヘルで女を買う)、トマス・フランクリン、カレン・カーソン、ケーシャブ・ズビン・カリ(驚異的な嗅覚の持ち主)、その他。 調査を終えた一行は、パリの蚤の市で通り魔事件に巻き込まれる。 |
「赤ちゃん工場」の現地調査に参加した人々の行動や人物背景、通り魔事件に巻き込まれる一連の流れなどを描きながら、欲望に翻弄される人間の現実を描写し、そこから時を移して人類が到達する「第二形態」の世界(不老不死を手に入れ、人類があらゆる段階を経験しつくした状態)を描き、さらに発展した「第三形態」という選択をせずに、田山ミシェルという一人の人物の手によって、太陽の核融合を加速させる装置を発動する方法が選ばれ、人間は(というより地球そのものが)焼き尽くされ、結果、すべて金になる。というお話。
なんのこっちゃ、と、これだけ読んでも意味が分からないかもしれません。
そもそも、”厳密に言えば、太陽は燃えているわけではない。”(『太陽』より)という出だしからはじまるこの物語は、なんなんだろうと思います。
太陽の核融合の話を書いているかと思えば、一瞬で視点が地上に降りてきて、デリヘル嬢を買う男の話になる。
物質としての「金」が、紙幣としての「金」と等価になる。
そこからデリヘル嬢になった女の人生に視点は移り、ドンゴ・ディオンムなる男が「赤ちゃん工場」をはじめる話へと転換、さらに……というように、どんどん下世話な展開を織り交ぜながら、物語が連なってくる。
こうした人間活動と、太陽の核融合の活動が、ほとんど同列のこととして取り扱われていて、つまりそれくらいに、この小説の作者の視野は広く俯瞰的で、大きな捉え方で世界(宇宙)を見ているのです。
文章は軽薄なほど軽妙で、「神の目」的な視点でぐるぐると複数の人物の上を通り過ぎ、偶然に出くわした人物同志が、その後奇妙な因縁めいた繋がりを持つことをも、まるで素粒子の話を書くごとく進め、必然のことのようにまとめ上げられていきます。
そして全ては、大錬金(太陽の核融合による金の生成)へと収斂されていくのです。
選考委員の星野智幸さんは、
ミッシェル・ウエルベックのような、宇宙の消失点から世界と歴史を語る、壮大な小説だ。(『新潮』2013年11月号 選評より)
とし、また太陽の錬金術という発想についても高く評価しながらも、
テクストとしての強度が『太陽』には足りなかった――(同上より)
としています。
やや戯画的な調子を持つ饒舌な説明は密度が薄く、語りの勢いだけで押し切ろうとしている側面が強い。(同上より)
また、中村文則さんも、本作品を高く評価しながらも、
話者がカリに、田山ミシェルに変わるところ、このような「破綻」は、この手の小説にはいらない。(同上より)
としています。さらに、
第三形態、をもっと書くべき。話者のトマス・フランクリンの状態をもっと書くべき。(同上より)
としています。(※注:小説後半で、物語の語り手が、国連調査団の一人であった、トマス・フランクリンであったことが、判明するくだりあり)
このような細かい欠点はありながらも、やはり『太陽』は魅力的な作品だと思います。
人類の醜悪さやいかなる不幸にも無感動な冷静さがあり、それは宇宙そのもののスタンスと同じ気配がします。
それでいて、実はデリヘル嬢である日本人女性に恋する純朴な青年の物語りを、ストーリーの主軸の割と近い所に置いていたりもします。
しかも、その青年が「赤ちゃん工場」の生みの親であるドンゴ・ディオンムの遺伝子を持つ者であり(このドンゴ・ディオンムは、地球こそ巨大な「赤ちゃん工場」だと考えていた男なのですが)、その血がやがて人類を焼き尽くす田山ミシェルへと受け継がれていくという皮肉な展開まで描いています。
小説の巡りが、地球規模、宇宙規模であるのに、その原動力となるものがミクロの活動(人間の卑俗かつ崇高な活動)であることをおさえている。
ここがとても面白いなと思いました。