「わたしは妊婦」
大森兄弟著
(河出書房新社)
主人公の「私」は、妊婦である。
同じく妊婦である大学時代の友人(さほど親しくはない)から届く手紙は、いかにも理想的な妊婦然とした幸福感に満ちているが、私自身は理想の妊婦とは程遠い現実を噛み締めている。 繰り返されるつわりによる嘔吐、不親切な産婦人科医、理想を押し付けて現実を見ない夫、一つの命を体の中に入れているというダイレクトな不安と、実際に産む場面への恐怖……。 彼女の心は、母親になるという喜びよりも、もっと切実に、押し寄せてくるストレスに曝されている。 そのことに、まったく気付こうともしない夫や友人や、社会全体へのいら立ちは、膨れ上がり……。 |
「犬はいつも足元にいて」で、第46回文藝賞を受賞した、兄妹ユニット作家、大森兄弟が、2012年『文藝』冬号に発表した作品です。
主人公「ゆり子」の一人称の視点で書いた作品で、妊娠した女性の気持ちを、「こんなにもなぜ?」と思うほど鮮明に深く濃く繊細に描き込んでいて、男性の(それも二人の男性による)作品だと知らずに読んで後で知ったら、きっと驚愕するでしょう。
本作品は、アナウンサーでタレントの小島慶子さんが絶賛して書評も書いています。女性陣に、強く支持される作品であることは、間違いありません。
妊婦は、妊婦であるだけで幸福で善良で気高き存在。
本作品は、そんな勝手な理想を押し付けられて、「個」としての人格を否定されていく一人の女性の内面の葛藤を描いたもので、男性陣が読むと、ちょっとぞっとする(もしくは幻滅する)ような内容かもしれません。
世の男という男たちの幻想を――というよりも、家族に、妻に、恋人に、隣人に、赤の他人に、ありもしないイメージだけの理想を被せ、それに安穏に酔いしれているだけの理想家たちの偽物の幻想を、延いては社会全体が抱いている幻想を、打ち砕くために、この作品は書かれたのではないでしょうか。
実際に存在している全ての人間は、おそらくどんな理想ともかけ離れた、ただのありふれた人間でしかありません。そんなただのありふれた人間は、妊娠して人の母になっても、決して聖母のような心を手に入れる訳ではないのです。
けれど、そのことをしっかりと踏まえた上でも、人は人の親になれるし、幸福も手にすることができる。
これは、そんな一縷の希望を描いた作品です。
妊婦側の、肉体に直結した不快感や不安や焦り、緊張、といった感情の起伏描写もさることながら、妊婦の夫(やがては生まれてくる子供の父親)として、自らも理想的であらんとする夫が、奮闘すればするほどに妻の心が遠のいていくという皮肉な関係性も面白かったです。
大森兄弟という作家は、”マイナーでありながら実は本質的である人間の心理”にとても忠実であるという理由で、信頼のおける作家であるのだと思います。