「穴」(新潮文庫)
小山田浩子著
(第150回芥川賞受賞作)
夫の転勤で、夫の実家の隣の借家に引っ越すことになった主人公(「私」)は、非正規で働いていた仕事を辞めることになった。
引っ越し先で新たに職探しをするつもりではあるが、借家の大家は夫の実家で、家賃が浮くことになり、働くことの重要性が薄れてしまった。 職場の同僚からは、「夢みたい!」と羨ましがられたが、「私」にはいまいちピンとくるものもない。 実際、引っ越してみると、同じ県下でありながら、それまで暮らしていた環境とは打って変わった田舎暮らし。姑である義母は気さくで明るい性格で、現役で働いていて、仕事が好きなようである。 義母や夫の手前、自分も何かしら仕事を見つけた方がいいような気もするが、誰からもそれを指摘されるわけでもなく、物価も安く家賃もタダなので、無理に働く必要がないという前提の前に、職探しに力が入らない。 ほとんど何もしないで日中、多くの時間を寝て過ごす(これが一番お金を遣わないので)毎日。 そんなある日、義母に支払いの用事を頼まれて、一番近くにあるコンビニに向かうことになる。 コンビニに行く途中、「私」は、奇妙な動物に遭遇する。どうやら哺乳類のようだが、犬でも猫でもイタチでもタヌキでも……「私」が知っているどんな生き物とも違う、この変な動物を追いかけて行くと、向かった川原で、突然、穴に落ちてしまう……。 |
一部の選考委員からは熱烈に支持されていた「さようなら、オレンジ」を押しのけて、第150回芥川賞を受賞した作品です。
主人公の設定や、夫の実家の田舎に引っ越すくだりまでは、これといって何でもない作品なのですが、一行一行にに込められた言葉の濃度が強くて、また「私」の視点から見える世界の手触りや質感の感覚が近くて、妙な臨場感もあり、引き込まれます。
元々、夫の実家の隣にあるという借家の存在からして、「私」の記憶の中で曖昧で、その曖昧な記憶と連動しているかのごとくに、「夫の実家の田舎」という場所が、どこか怪しげにのったりとした印象で「私」を取り囲んできて、ものすごく普通の場所で起こっている普通の人の普通の話なのに、「不思議の国のアリス」めいた浮遊感が漂っていて、まるで夢の国でも迷い込んだかのようです。
小山田さんといえば、第42回新潮新人賞を受賞した『工場』が代表作の一つですが、この作品は、日本のどこかの田舎に存在するであろう、つまり多くの人がかなり既視感を覚えるのであろう、「工場」を描きながら、微妙になにかがズレた世界があって、そのズレ感が、どこかカフカの「城」を思い出させます。
「穴」で描かれるのも、やはりなにかが少しだけズレている世界ですが、ズレているのかどうかもよく分からない描き方になっていて、もしズレているとしたら、主人公の視点であるのかもしれないという緊張感もあり、読んでいくうちにこの不思議に歪んだ感覚が心地よくもなってきます。
田舎の風景に溶け込んでいる、植物や昆虫などの細かい描写が何気によく描かれていて、特に蟻や蝉やコメツキムシ、バッタ、アブラムシ、僧侶の足袋にくっついた葉ダニ、等々……。微に入り細に入り、「私」の視点で捕らえられる小さな命を、取りこぼすことなく書き込んでいます。ほとんど、近所に住んでいる住人くらいに、この小いさきものたちをクローズアップしていて、これが、コンビニに向かう途中の道に、人の影もない、という描写と対照的で、「私」が落ち込んんだ世界の状況を伝えてきます。
そこに、「奇妙な生き物」がふらりと現れてきて、物語りが急に色調を変え、面白さが加速した感がありました。
ところで、「私」が落ちた「穴」についてですが、芥川賞の選評で、村上龍さんは、このように述べられています。
タイトルの「穴」が何を象徴しているのか、そんなことは大した問題ではない。何かを象徴しているはずだが、それがあからさまになってしまうと作品が定型に堕することを作者は知っているのだと思う。(「文藝春秋」2014年3月号 芥川賞選評より)
確かにその通りで、例えば「穴」は、ストレートに考えれば女性器を象徴しているとも言えるでしょうし、その延長上に「あの世とこの世の繋ぎ目」(実在しているかどうかも分からない無数の子供たちの遊び場でもあり、義祖父が亡くなる前に入った場所でもあるのですから)などと空想を膨らませることは出来ます。けれど、断定できるものや、故意に誘導的に描かれた部分がないので、解釈の仕方は読者の想像力に委ねられてきます。
私はここで、小山田さんの「穴」と全く同名の小説、三並夏さんの「穴」との類似を思いました。
三並さんの「穴」は、2010年の『文藝』冬号に発表されたもので、年代からすると、こちらの方が先に書かれたものだろうと推測します。(必ずしもそうとは、限らないでしょうが)
こちらの「穴」は、人が平均的な幸せと引き換えに落ち込んでいく場所のことだと、わたし自身は解釈しています。
小山田さんの作品との共通点は、こちらの主人公の「わたし」も、彼女を取り囲む世界(他人のとる言動の一々)に違和感を覚えていることで、違っているのは、三並さんの作品からは、周囲への強烈な拒否反応が見られることと、彼女自身は決して「穴」に落ちてはいない(少なくとも、本人はそう思っている)ことです。
自分以外の皆が一様に進んで落ち込んでいく「穴」の存在に気づき、その入り口の周辺で嗅覚を研ぎ澄ましながら、ひたすら警戒し、苛ついているだけの人、という感じ。
これに対し、小山田さんの作品の「私」は、完全に「穴」に嵌ってしまっているし、実際に落ちるまで「穴」の存在にすら気付いていません。尚且つ、堕ちた後も、もがき苦しむこともなく、拒否反応もない感じです。
「穴」とは、既に「私」が物語り冒頭から違和感を抱き続けていた世界(田舎に来る前から、実はずっと彼女を取り囲んでいた)そのもので、「穴」に落ちた時点から物語が始まるのではなく、「穴」に落ちたことで、自分がとっくに「穴」の中にいたことを気付かされる、という物語だったのではないかな、と思えてなりません。
もう一度、少しだけストーリーの続きに戻ります。
奇妙な動物を追いかけて穴に落ちた「私」だったが、そこを偶然通りかかった隣人の女性に助けられて、コンビニに向かい、そこで、一人の男に出会う。
子供たちから「先生」と呼ばれている、妙な雰囲気の男だったが、後になって、これが義兄(夫の兄)であることが分かり、けれどそれまで一度も、夫に兄がいたことを、家族の誰も話してくれたことがなく、その存在を知らなかったことに「私」は戸惑う。しかも、義兄は、実家の裏手にある物置で、二十年間も引きこもって生活しているという。 |
ここで登場する義兄は、物語で非常に重要な役どころです。「私」以外で、唯一「奇妙な生き物」の存在を把握している人物でもあります。二十年前、彼が逃げ出した(もしくは捨て去った)世界こそ、「私」が違和感を抱いている世界そのものなのです。
この義兄の存在がどこかあやふやで、本当に実在するのかどうかも、物語りの終盤では怪しくなりますが、作者はこれになんの解答も出してはいません(手掛かりはありますが、これにはぐらかされている感じでもあります)。
読めば読むほど、奇妙な味わいがする小説で、狭い世界の一夏のことを描いただけの物語りですが、色んな想像の扉を開けてくれる作品だと思います。
【参考書籍等】
三並夏『穴』(『文藝』2010年冬号掲載)
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