「永い言い訳」
西川美和著
(文藝春秋)
衣笠幸夫こと作家の津村啓は、ある日突然妻を亡くす。妻(夏子)は友人(大宮ゆき)と出かけていたバスツアーで事故に遭う。バスが転落したのだ。
妻が死んだとき、幸夫は愛人と過ごしていて、妻の死を聞いてからも、どうしてもその死を上手く受け入れることが出来なかった。 彼は、人前でも悲しみを表現することはなかった。悲しみの感情さえ、彼には上手く掴めなかった。 一方、被害者遺族の中にいた、夏子の友人の大宮ゆきの夫である大宮陽一は、悲しみや怒りの感情を公然とし、同じ遺族でありながら幸夫はそんな陽一との隔たりを感じずにはいられなかった。 夏子が死ぬまで、幸夫自身は大宮一家とは全く付き合いがなく、他人同然だった。幸夫からすれば、亡き妻の友人だった人の家族、という程度の認識であるのに対して、陽一や息子の真平、娘の灯は、生前の夏子がずっとそう呼んでいたからという理由で、「幸夫くん」と彼を呼んでいるようだった。 陽一の方から交わろうとしてくる親し気な気配を、はじめはどうも自然に受け入れられなかった幸夫だったが、真平や灯共々四人で食事をした夜をきっかけにして、交流がはじまる。 そして、子供嫌いだったはずの幸夫が、長距離トラックの運転手である陽一の留守中、週二回(真平の塾の日に)灯を一人で預かることになって……。 |
これは、喪失と再生の物語りに違いないのですが、喪失したのは(妻が死んだ)その地点ではなく、もっと遡った別の地点で既に大きく何かを喪失していて、そのことにようやく気が付く人間の物語りです。
西川美和さんは、映画監督でもあり、本作品は彼女の手で映画化もされています(当然)。
西川美和さんの代表作に、『ゆれる』という映画があって、私はこれを観たとき、「なんて小説っぽい視点なんだろうな」と思ったのをよく覚えています。
オダギリジョーさんが主演されたこの映画の原案・脚本・監督を彼女が手掛けているのですが、人間の記憶や感情がいかに脆く曖昧であるかを「ゆれる」という感覚で表現したこの感性は凄いな、と感動したのでもありました。
小説版を読んでいないので、そちらを読むべきかどうかを少し悩むところでもあります。というのも、まったく同じテーマ、設定、結末を想定していても、おそらくですが、映画と小説とでは、まったく別物に化けてしまう可能性があるからで、素晴らしいと感動した映画の小説版を読むということは、そこで何かを裏切られる可能性もある、ということを秘めてもいるからです。
映画と小説は違う。
というのが、卑小な私が考えるところです。
どちらが優れているとかいないとかではなく、アプローチや展開の仕方や登場人物たちとの距離感や、事細かい描写段階での差異が無数に派生してきて、同じカテゴリーでは評価し得ないものがある。と思うんです。
まったく同じ人が、映画も原作も手掛けているということは、描こうとしている内容や主張や物語世界は同質のもので、ただ作る段階の”やり方”が違うというだけなのでしょうが、ここの部分の相違をあなどれないと、私個人は感じているのです。
さて、本題に戻って『永い言い訳』ですが、こちらは映画を観ていません。だから、なんの恐れることもなく、この小説版『永い言い訳』を手に出来たわけですが、するすると読めて、非常に文章力もあり、良い書き手だと思いました。
視点が主人公の幸夫だけでなく複数の視点に切り替わる所は、やっぱり映画の世界の人なんだな、とも感じました。
広島東洋カープの衣笠祥雄と同じ響きの名前を持つということを、ずっとコンプレックスに感じてきた主人公の幸夫は、冷静沈着そうな外面とは裏腹に、なんとも可愛げのある人物であり、彼の陥った心の空虚さもよく伝わってきました。
何かに対して悲しもうにも笑おうにも怒ろうにも、その感情の根源となるものこそが見当たらなかったら?
普通、こういう所では人間って悲しまなければいけない、喜ばなければいけない、怒ったり不安がったりくつろいだり、とにかく「普通はこうあるべき」という一般認識上の感情というものがお手本のようにあって、けれど実際の自分自身の感情がどうもそれとはズレてしまっている、ということは割とよくあることではないでしょうか。
この作品は、なにも特別な人の話を書いたわけではなく、多くの人が、普通に直面する心の問題を切り取り、そこに希望を輝かせたヒューマニズム的作品として、評価されるものだと思います。
ただ一つだけ。
この小説を、もしも幸夫の一人称語りだけで終始書き貫いていたら、いったいどういう作品に仕上がっていただろうか、という個人的な興味だけは、どうしても捨て去ることが出来ません。
今度は、映画版を、そして、少し勇気を出して、小説版の『ゆれる』を手にしてみようかな、とも思っています。
【西川美和さん他作品】
(ポプラ文庫)
(ポプラ社)