「世界泥棒」
桜井晴也(著)
(第50回文藝賞受賞作)
(河出書房新社)
放課後の教室で、男子たちが決闘をしていることを、主人公の「わたし」は、真山くんから聞いた。決闘は、本物の銃を使って行われ、どちらかが死ぬまで終わらない。
決闘をとりしきっているのは、百瀬くんという男子で、見物人である他の男子たち(まれに女子も混ざることもあるが)に見守られながら、二人の少年は順番に引き金を引く。そしてお互いを殺し合う。 そんな話を、たくさんの子供の幽霊が漂う夕暮れの公園で(わたしが真山くんから)聞いてから二週間後、真山くんが死んだ。 真山くんは何者かに殺されていて、死体は頭部や手足を胴体から切り離された状態で、川べりに捨てられていた……。 |
「わたし」や「真山くん」の住んでいる世界は、現代日本社会であるようなのですが、街と街との間に国境があって、国境には監視所があり、国境警備隊が配備されています。
となりの街では、戦争もおこっているらしく、世界の「ありかた」が、いったいどうなっていて、どういう成り立ち方なのかもよく分からないのです。
そういう世界の中で、「学校」があり、「放課後」があって、放課後の教室で決闘が行われていて、しかもそれは少年たち(中学生もちくは高校生なのか)の行っていることで、そこでは本当に人が死んでいるのです。
この作品は、「個」と「世界」と「ありかた」を見つめた小説――というよりも、一遍の「詩」なのだと、私個人は受け止めました。「詩」にしては、確かに滅茶苦茶に長すぎるのですが、小説だとしたら余りにも幻想的で観念的過ぎるような部分が、「詩」だと理解すると、ものすごく自然に受け入れられる気がするのです。
この小説は、幻想的でまた猟奇的でもありながら、非常に高い思考力を持っていて、ずっと何かを考えあぐねています。
特に、はっとした一文がありました。それは、戦争がおきているとなりの街に横たわる「死体」について書かれた箇所で、
わたしの知らないどこか遠くの国で殺されて、それからいくらかの金貨をはらってその国に輸入されたみたいな死体たちだった。(『世界泥棒』より)
これを、今現在進行形で世界各地でおきていることの、皮肉を込めた隠喩だとすると、ものすごい一文ではないかな、と思うのです。色々な解釈は出来そうですが、”「戦争」さえ貨幣社会の歯車の一つに組み込まれている”と読めばどうでしょうか。
また、もう一つ、無性にツボだった言葉があります。
わたしはわたしの夢のなかですら死なないんだ、わたしが夢だよ。(『世界泥棒』より)
小説の世界がここだけ、ぺりりと捲れて、裏返ってきそうな気配がして、とても好きでした。こういう言葉をさりげなく入れ込んでいるところが、やっぱり詩人だな、と思わせてくれるのでした。
「世界泥棒」の正体とその意味が明かされるのは、作品の後半ですが、そこで描かれる百瀬くんと「わたし」と、そしてもう一人重要なキーパーソンである「妹」の物語が、この小説のストーリー上の核になっています。これが返ってそれまでの広がりや強度をやや限定的にしてしまっているようで、少し残念に思いました(ストーリーそのものとは関係なく、やはりこの小説の核は言葉そのものと作者の思考力の強さだと思うので、そこまで問題には感じませんでしたが)。
選考委員の高橋源一郎さんは、
1985年生まれの著者によって書かれた「戦争小説」(『文藝』2013年冬号 文藝賞選評より)
と題した選評の中で、
なにが現実で、なにが幻想なのか、誰も定めることができないまま、小説は進んでゆく。そして、そんな非条理な世界で、登場人物たちは、「死」について、「戦争」について、あるいは、「死」や「戦争」と自分たちの関わりについて考えつづけるのである。(同上より)
と、述べられています。
確かに、小説はストーリーや登場人物を造形するというよりも、ずっと何かを思考しつづけている、という様相を呈しています。
角田光代さんは、
作者は小説を書こうとしたのではなくて、思考したかったのではないかと想像する。(同上より)
と言われていて、本当にその通りだろうと思いました。
星野智幸さんは、
作品世界の創造においては文句のない強度を備えている。(同上より)
としながらも、言語感覚には否定的で、特に比喩表現は、
雰囲気だけで安易に選ばれたように感じられる言葉が多すぎる。(同上より)
としています。
山田詠美さんは、この比喩に関して、こんな風に言っています。
これでもかこれでもか、とくり出される比喩は、時にうっとうしく、時に魅力にあふれていて、呆れるやら、感心するやら。(同上より)
傷は山ほどある、としながらも、”柊くんが夕暮れを食べて嘔吐していた”というフレーズにやられたとしています。
全体の印象として、とにかく”長いな”と思ったのですが、盛り込まれている比喩の多さに圧倒されました。
確かに、星野智幸さんが指摘されたように、あまり考えられていなくて、どうしても陳腐にしか思えない表現も多くあるのですが、分量の多さが半端なくて、読み終えた後に、この膨大な言葉の堆積が一つの「詩」に結集していく感じが、妙にきれいだと思いました。