子守唄しか聞こえない

「子守唄しか聞こえない」

松尾依子著

(第51回群像新人文学賞受賞作)

(講談社)

 

 

三方を山に囲まれ、残りの一方は海に面しているという田舎町で、閉塞感と退屈さの中で暮らす女子高校生(「私」=「美里」)の物語。

自分が生きている世界を照らす太陽を、『偽物なんじゃないか』と疑い、ジム・キャリーの映画(『トゥルー・マン・ショー』)のように、世界の外側からずっと監視されているのではないか、という不安を抱いている「私」。

そんな「私」には女友達が少なく、いつも行動を共にしているのは、幼なじみで恋人であり性的な関係もある「タイラ」と、その友人からなる4人組の男子たち。

「私」は紅一点、彼らの中で守られ、優しく存在を許されながら彼らとの付き合いを成立させている。

傍目から見れば、一見羨ましい感じのする構図ではあるが、本人的には男子たちの中で微妙な疎外感も感じている。

そんな「私」の日常に、不穏に忍び寄ってくる影があった。

それは同級生の「真沙子」で、彼女は去年同じクラスだった時も仲が良かったという記憶もないのに、別々のクラスになった今、なぜか親し気に話しかけてくる。ほとんどストーカーのような切迫感で終始観察され、付き纏ってくるような真沙子に、「私」は不快感しか感じない。

やがて真沙子は、仲良しグループである男友達にも話しかけてくるようになり、「私」が大事にしてきた彼らとの貴重な友情関係に暗雲が垂れ込める。

「私」のことを羨ましいと誉めそやし、強かな態度で距離を詰めてくる、真沙子の真の目的はなんなのか――

作品の完成度の高さは、総じて選考委員たちの評価を勝ち得たようです。ただし、完成度の高さに比して、どこか物足りなさを訴える意見も多かったようです。

選考委員の一人、藤野千夜氏は、

狭い町で暮らす女子高校生の苛立ち、その年頃の子の心の狭さがよく表現できていると思った。主人公が抱えている古典的な悩みが、普遍的なものとして今も生きているというのも理解できる。さらには文章もよい。(『群像』2008年6月号 選評より)

としながらも、

全体としての魅力が乏しく感じられたのは残念だった。(同上より)

としていて、その理由を、作者が物語を感傷的、感動的にまとめようとする手法をとっていることや、主要登場人物である真沙子への物足りなさに言及しています。

この藤野千夜さんの意見は、本作の持つ良点と欠点を端的に捉えていて、特に問題点をきちんと浮かび上がらせてくれているので、参考になるかと思います。

個人的な感想としては、やはりどこかに既視感があり、一定の退屈さを覚えると同時に、嫌な性格の持ち主として描かれている「真沙子」以上に、主人公の性格の悪さが中途半端に小説全体に投影しているのが気持ち悪くもあり、この気持ち悪さは長く付き纏ってきてしまいました。ここのあたりを、もっと躊躇せず、大胆に「嫌な性格」というものを前面に出してくれた方が、むしろ好感が持てたように思えてなりません。

小説の中で、ストーリーの外側にいるようでもありながら、真沙子と同じくらいの存在感を発している登場人物「干支婆」というのが出てきて、味わいを深めているのは、いいと思いました。

真沙子というのが、実は記憶の曖昧だった子供時代にも関わっている存在で、この記憶を取り戻していく過程や真沙子との関りの中で、「偽物の太陽」に象徴される自分を取り囲んでいる世界との関係(観察される者と観察者。世界の内側とその外側の世界。更にもっと外側の世界)という構図をより深めていって、面白かったです。これを表現する為に組み立てられたのだと考えると、小説全体の構成力の強さに、驚きを感じました。

それだけに、ラストの辿り着いた平凡さには、正直がっかりしてしまいました。主人公が、設定上少数の男子の群れの中でしか生きていないというのも、なんだか特異で面白いのかもしれませんが、この年代特有である女子社会での粘っこい体験性というのが、ほとんど真沙子との関係でしか描かれておらず、本作の物足りなさはこんなところにもあるのかもしれません。

なお、参考までにですが、加藤典洋氏、および松浦寿輝氏が、『天然コケッコー』という山下敦弘監督による映画と本作との相似を指摘していました。