こんにちは久々の『tori研』です。

今回は第5回目となりますが、そろそろ時期的にも差し迫ってきましたので、群像新人文学賞(締め切りは10月31日です!!)を研究してみたいと思います。

これまでの経緯と同じように、過去の受賞作及び受賞作の選評などを独自にまとめてみて、何らかの傾向や特徴がないかどうかを研究してみる、という至ってシンプルなものなわけですが、もちろんどこまで真に迫れるかは未知数であります。あくまでも、参考程度に、お読みいただければ、それがささやかでも何らかの手掛かりになれば幸いかな、と思う次第です。(´;ω;`)

では、さっそく本題に入ります。

今回はあまり時間もありませんので、前半と後半の二回に分けて分析してみます。

まず、前半は、第49回~第53回(2006年~2010年)の、群像新人文学賞をまとめてみました。

以下が受賞作の一覧です。読書感想を個別に書いておりますのでそちらの方と合わせてお読みいただいて、参考にしていただければと思います。

第49回

(2006年)

 「無限のしもべ」

(木下古栗)  (→読書感想はこちら)

 「憂鬱なハスビーン」

(朝比奈あすか)(→読書感想はこちら)

第50回

(2007年)

 「アサッテの人」

(諏訪哲史) (→読書感想はこちら)

 (優秀作)

「だだだな町、ぐぐぐなおれ」

(広小路尚祈)(→読書感想はこちら)

第51回

(2008年)

 「子守唄しか聞こえない」

(松尾依子)(→読書感想はこちら)

第52回

(2009年)

 「カメレオン狂のための戦争学習帳」

(丸岡大介)(→読書感想はこちら)

 第53回

(2010年)

 「朝が止まる」

(淺川継太)(→読書感想はこちら)

 「後悔さきにたたず」

(野水陽介)(→読書感想はこちら)

【第49回】

この回は、「無限のしもべ」(木下古栗)と「憂鬱なハスビーン」(朝比奈あすか)のダブル受賞で、もう一作、加藤典洋氏が強烈に推した「煙幕」(深津望)が優秀作として選ばれましたが、どことなく静かな気配のする選考結果でした。

選評を読む限りでは、「煙幕」を推した加藤氏の熱意は凄まじいものがあったようですが(”批評家生命を賭けて推す”とまで言われたようです)当選作となった二作に対しては、ある一定の評価以上の熱意は見られませんでした。

ただ、この回で注目したいのは、やはり木下古栗さんの「無限のしもべ」の方です。

主人公が朝目覚めて、マンションの駐車場を見下ろすと、4人の男女が円卓を囲んでティーパーティーをしている、そこに主人公が参加しようとして悪戦苦闘する、という設定からしてかなり飛んでいて、性的に下品な描写も多く、だいぶ挑戦的な内容だったと思うのですが、これが受け入れられている。

これに対して「憂鬱なハスビーン」の方は、しっかりとした文章力と構成力からなる正統派な印象の作品で、どちらもちゃんと評価されている、ということには安心させられます。

なお、この回には現在(第60回)の選考委員でもある多和田葉子氏も、選考委員でした。

【第50回】

前回の静かな印象とは一変して、この回の選考員たちは色めきだっています。全体的に小説部門の水準が高かったようで、選考委員の一人、松浦寿輝氏の言葉を借りると、”文運隆盛の兆し”といった感じです。

特に、この年の芥川賞を受賞することになる諏訪哲史さんの「アサッテの人」は、選考委員のほとんどから高い評価を受けました。

注目したいのは、やはり何といっても、現選考委員の一人でもある多和田葉子氏の意見です。

”「アサッテの人」は読み始めてすぐに、「ここ」に来てよかったと思った”

と、彼女はそのくらいにこの作品を評価したのです。

惜しくも当選を逃して優秀作になった「だだだな町、ぐぐぐなおれ」(広小路尚祈)に至っても評価は高く、町田康との相似も言われましたが、独創性があるというのが主流な意見のようでした。

二作品とも独特で、それぞれ個性は違いますが、言葉の音の持つ魅力(「アサッテの人」では「メタフィクション」として、「だだだな町、ぐぐぐなおれ」では、パンクロック的リズム感として)を打ち出してきていて、小説の筋書きや細かい舞台設定以上に、『言語感覚』が重視されている、という風潮を感じました。(この風潮は、例えば円城塔氏のようなメタフィクションの作家などを中心に、いまだに根強く息づいている気がします。)

 

【第51回】

この回に至って、選考委員たちの高揚感は抑えられてしまいました。印象としては、随分と覇気のない感じの選評ばかりであります(もちろん、それは最終選考に残った作品群の覇気のなさだったのに違いありませんが)。

松尾依子さんの「子守唄しか聞こえない」は、閉鎖的な海辺の田舎町で生まれ育った少女の孤独や心の葛藤が描かれていますが、全体的に憂鬱感に呑み込まれた感じは、題名が暗示する通りに、退屈さの中に眠り込んでしまいそうな心情を切々を描いていて、主人公と同世代の同性からも、好感は得られないのではないか(もちろん、小説そのものにではなく、主人公に対してですが)、と思われます。

もっと破壊的な何かを選考委員たちは(延いては読者は)期待しているのに、それが与えられなかった、というところでしょうか。

それでも、この小説が持っている技術的な良点はいくつもあるのです。そこに対する評価は大きかったようです。基本的な技術を身につけるということが受賞への第一歩であるのは、間違いないことだと思いました。

 

【第52回】

「カメレオン狂のための戦争学習帳」(丸岡大介)は、またもや評価の高い作品でした。またもや、というのは、第50回の「アサッテの人」以来、ということです。

こういう「如何にもたくさんの書物を読み込んできたに違いないであろう博識の人が、少し肩の力を抜いて敢えて書いている感のする、けれど実は侮れない仕掛けが幾つもあって付け入る隙が無い、というようなスタンス」が、同じ物書きからすると非常に好感が持てるものなのかもしれません。

こういうスタイルで小説を書こうと思ったら、もちろん何は何でもたくさんの書物を読んで滋味を吸収していく必要があるわけで、実際、諏訪哲史氏などは小学校時代から一週間に10冊ばかり本を読み続けてきた、というくらいの読書家であります。(一週間に10冊と言えば、一日一冊以上読破するわけで、その何十年か分、と考えたら物凄い事ですよね)

「急がばまわれ」というように、目先の文学賞の締切に焦るばかりが受賞への道ではないわけで、そのことを痛感します。

ただ、この「カメレオン狂のための戦争学習帳」は、「教員のための独身寮」という発想の面白さも評価された作品で、冒頭の暴走族を描写した個所など、言葉のセンスや文章力の面白さを純粋に感じました。

現代における「戦争」を題材にした作品としては、今年、第121回文學界新人賞を受賞した砂川文次さんの「市街戦」(→読書感想はこちら)がありますが、これはその先駆け的な作品といっても良いのかもしれません。

どちらの作品も、戦争賛美や戦争批判をするなどした社会派小説ではなく、平和でありながらも日常生活のどこかしらには微かな「戦争」の気配(あるいは名残り)を感じなくはない現代日本の不穏さを、文学として成立させたもの、だと私個人は認識しています。

「戦争を知らない世代が描く戦争」としての新しさがあるのだと思いますが、「カメレオン狂のための戦争学習帳」においては、寮や学校(教師、生徒含めて)での心理戦のような戦いが繰り広げられていく展開の面白さがありました。文章が軽快で饒舌でありながら、どこかに古典的な匂いも漂っていて、こうした塩梅の全てが一つの世界観を創り上げている、と感じました。

 

【第53回】

「朝が止まる」(淺川継太)と、「後悔さきにたたず」(野水陽介)のダブル受賞でした。

個人的な感想としては、「朝が止まる」の現代的なスマートさに比べて、「後悔さきにたたず」は、主人公のキャラクター設定のこともあるのかもしれませんが、多少野暮ったく、ラストの締めくくりの浅い展開に失望すら感じました。それでも作品の持つ「小説の粘り強さ」が、選考委員の評価を得るに至らせたのだと、そのように解釈しました。

また、「後悔さきにたたず」は、題名や締めくくりのありきたりさとは別に、個々のエピソードには妙な臨場感や説得力があって、目が離せないところもありました。少し「うざい」感じの主人公が、読み進めていくとある種の愛嬌を持った一個の人間として、きちんと立ち上がってくる感じも良かったです。

選考委員がよくマイナス評価をされる時に使う言葉で、「既視感」という言葉が頻度的に多く出てくると分析するのですが、「後悔さきにたたず」は、コンビニという設定に「既視感」があると伊藤たかみ氏は言われていて、それは(この回以前までの話だったかも知れませんが)コンビニを小説中に投入してくる応募者が、新人の文学賞ではかなりいるそうなのです。

つい最近でも、芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの「コンビニ人間」がすぐ頭に浮かびますが、「コンビニ」を題材にしたり作中に投入する場合は、取り扱いにご注意した方がいいかもしれません(決して、書いてはいけない題材でもないとは思いますが)

 

【まとめ】

ここまでの流れ、というか雰囲気だけ見てみると、どうも受賞作に残っている作品には大きく分けて、だいたい二通りのタイプがあるようで、一つは、文章や構成など、小説を書く上での技術を研ぎ澄まし、作品自体はわりと素直な形で構築して、丁寧に書き綴ったもの――

「憂鬱なハスビーン」

「子守唄しか聞こえない」

がこのパターンである気がします。

このタイプは、先人作家たちの築いた小説の技巧を心得ていて、きちんとそれらを踏襲している気配が見受けられます。その分、新鮮味はありませんが、読みやすく完成度の高い作品に仕上がっています。

もう一つは、それ以前の小説の技巧的概念などを考えずに、むしろそれらを打ち崩しながら、独自の小説世界を築き上げようとして奮闘しているもの。

「無限のしもべ」

「アサッテの人」

「だだだな町、ぐぐぐなおれ」

「カメレオン狂のための戦争学習帳」

などがこれにあたるかと思います。これらの作品はどれも挑戦的で、新しく、読みごたえもあって、独創的です。

こうした新しさを追求するタイプの作家が望まれているという傾向が、新人の文学賞ではあるようです。

破綻しないように完成度や細部の丁寧さで勝負するか、それとも、もっと冒険してみるか、という選択肢は新人賞にはあるのかもしれません。

個人的には、冒険してみる方が作家デビューした後々のことなども考えて、作風に幅を持たせるという意味で重要ではないかと思います。

また、上のパターンのどちらにも当てはまらない作品として、

「後悔さきにたたず」

があると思います。

一人の個性的な登場人物の行動や思考、日常などを執拗に書き綴る、というものです。この作品にはなんというか、普通ではない「粘り強さ」を感じました。そこに、ある種の臨場感が生まれたのだと思います。そして、こういう「粘り強さ」というものも、作家として歩き出してからはきっと必要になるから、という理由からだと推測しますが、選考委員の評価を一定以上は勝ち得るみたいです。

 

……と、ここまで順を追って分析してまいりましたが、「大した収穫ないな!」との罵声が聞こえてきそうです……:;(∩´﹏`∩);:

一部、個人的な意見なども差し挟ませて頂きましたが、もちろん傾聴に値しなかったものは、無視されてかまいません。

次回は、第54回から以降の作品を研究してみたいと考えております。

日程は未定ですが、近いうち、またお会いできる日が来ることを、心から願って、今回はこの辺で退散させて頂きます(@^^)/~~~

 

※上記記事を書くにあたって、講談社様出版の雑誌『群像』2006年6月号、2007年6月号、2008年6月号、2009年6月号、2010年6月号の群像新人文学賞における選評、および掲載された受賞作等を参考にさせて頂きました。