拳の先拳の先

角田光代著

/文藝春秋

 

題名からも想像できるように、これはボクシングの話です。作者は週に一回、輪島功一ジムに通っていますから、その経験がこの作品に生きたに違いありません。

主人公を体育会系ではない文学好きの青年にしておいたあたりは、ボクシングにそれほど興味のない人が読んでも付いていけるようにという、著者の工夫でしょうか。実際、綿密な取材の元に書かれたものらしく、ボクシング界という特殊な世界の細かいやり取りや練習風景、試合状況など、角田光代さんらしいどっしりと腰を据えた丁寧な書き方で展開されていきます。

殴り合う試合風景などは、テレビ画面や会場内で、実際のボクシングの試合を観ているかのような臨場感あふれるものです。ボクサーたちの痛みや汗や臭い、殺気、恐怖、どよめき、とにかく色んなものが、叩きつける言葉によって押し寄せてきます。

読み始める前から、これはきっと汗臭い男ばかり出てくる、汗臭い小説だろうな、と思っていたのですが、それは確かにその通りで(もちろん、主人公たちの恋人など数人女性は登場しますが)、けれど、それだけで終わるものでもありませんでした。

人間が潜在的に持っている恐怖や、日常の中で繰り返されている理不尽な状況、それと人はどうやって向かい合っていけばよいのか、という隠れたテーマが横にあって、ボクシングはあくまでも象徴なのだと気づきます。

主人公の青年が、どうしても心を奪われる一人のボクサー立花を通して、この普遍的な難問に対峙し、答えを追い求めていきます。

主人公が心を寄せるもう一人の登場人物に、ノンちゃんといういじめられっ子の少年が登場するのですが、彼の描き方もいい。問題が根本的に何も解決されないというラストで、それでも希望をそれぞれが抱けるという結末には賛否があるかもしれませんが、それこそがこの世界の現実で、完全に問題が解決するということは本当にはほとんどなくて、そうした現実の中で戦い傷つきもがきながらも生きていく、ということの重要さをこそ、著者は描きたかったのだと思います。

ボクシングという、殴り合いで勝ち負けを競うという凶暴な競技の世界を、今時の青年像をしっかりと投影させた主人公や主人公の見つめる若きボクサーたちの姿を通して、実に豊かに生き生きと展開しているあたり、やはり角田光代という作家の凄さを感じました。読んでいると、冷えたビールが飲みたくなる小説でもあります。