第155回芥川賞候補作
山崎ナオコーラ著/文藝春秋
物語りは、末期がんの妻を看取る夫。という設定で、現代における「ターミナルケア(終末期の医療及びケア)」の現場がリアルに描かれています。当然、「死」を一つのテーマにしていますが、それ以上に「死」に臨む人や、さらにその周辺の人たちとの関係性や対峙の仕方、というものに一番の焦点を当てていると思います。
人は誰しも死ぬものなのに――特に近しい間柄の人の「死」に不慣れであるし、不器用な感覚で手探り状態に向き合うことになります。そういう立場に立たされた時の、違和感や戸惑いや悲しみ、その「死」を乗り越えた後も続く未来(人生)に潜む不安定さなかで、いかに心の平常を取り戻していくのか。これは、現代社会の日本のみならず、古今東西、人類(生命全ての)永久的なテーマでしょう。
ここでは、いかに絶妙な「距離」をとるか、ということに一つの答え、というか救いを見出すことで、物語に光を与えています。作者が導いたその「美しい距離」というものの境地は、作品を読むと浮かび上がってきます。
さらに読んでいて気が付いたことがあります。
一読して、若干の違和感があり、それがなんであるのかすぐにはピンと来ませんでした。「妻との関係性」ということを再度頭に入れて読み直すうちに、ようやく納得がいきました。作者は一つの企てを(かなり意図的に)やっています。作中の主人公でありながら語りでもある夫に、人称代名詞が与えられていないのです。
本来なら、「僕」とか「わたし」とか「俺」とかいう主語がくるところを省いて、文章そのものを主体的に書くことで、この部分は主人公の動きや心の声だ、と分かるように仕組んであるのです。あまりに文章が自然で、最後まで気付かずに読んでしまっていました(笑)。これが作者の何らかの企てだろうと思うのは、小説を書く上で主人公の人称ほど大事なものはないからです。それを何食わぬ顔で削っているわけですから、そこに企みがないわけはないと思います。主語のない主人公は読者そのものがそこに「僕」「わたし」「俺」と書き込むことも可能だ、ということではないでしょうか。
この小説は、人と人との「距離」をテーマにしているわけですから、主人公と「妻」というものの間にある微妙な「距離感」といったものとは別に、作者と主人公との「距離感」、さらには、読者と登場人物たち(=物語り世界)との「距離感」も、計算に入れていないことはないでしょうし、もしかするともっと大きな意味がそこには隠れているのかもしれません。
余談ですが、同じく芥川賞候補になった高橋弘希さんの「短冊流し」も、娘の病に向き合う父親の物語で、発着点は違うかもしれませんが、”近しい者(家族)の病気に対峙する主人公”という構図は類似点があるようで、この辺に時代性も浮かんでいるのかな、と感じました。