ジャージの二人 (集英社文庫)

『ジャージの三人』

 長嶋有(著)

(『ジャージの二人』/集英社 に収録)

 

 

 

この作品は、2003年に雑誌「すばる」の11月号に掲載されたもので、同じく3月号に掲載された『ジャージの二人』の続編です。

『ジャージの二人』のあらすじを振り返ってみると、

作家志望の主人公「僕」は、仕事も辞めていてほぼゼロ収入。妻には不倫されていて、そのことを知っているのにどうすることも出来ない。「僕」は、そんなグダグダな生活から逃れるかのように、父親と二人で北軽井沢の山荘へ向かう。

父親と「僕」の母親とは、大昔に離婚していて、今現在父親は、三人目の妻とその間に生まれた「花ちゃん」という娘と暮らしている。夏の間に父親が家族と山荘で過ごすのは毎年のことだ。

「僕」が山荘を訪れるのは(父親と再会するのも)5年ぶり。そんな父と息子は、スローでほろ苦くちょっとクスリとする、夏の終わりのひと時を過ごすのだった。

というもの。

『ジャージの三人』は、この一年後の話で、再び父親と共に例の山荘を訪れる「僕」。なのですが、そこにもう一人、かの不倫している「妻」が加わってのはじまりとなるのです。

どういう展開になるんだろう、と思っていると、意外にも「妻」は三泊だけしてあっさり東京に帰ってしまいます。また「ジャージの二人」に戻るのですが、そこに今度は父親の三人目の妻との間の娘「花ちゃん」(「僕」にとっては妹)が登場して、再び「ジャージの三人」になり、あいかわらず、ゆるくてほのぼのほろ苦い展開。

前作の「ジャージの二人」と同様、特にこれといって盛り上がる場面などどこにもないのですが(なかったはずです、たぶん)、なぜかラストのシーンでは一つのカタルシスを通過した後のような、不思議な感動が残ります。

あれ? これっていったいどういうことなんだ?? っと、長嶋有の作品を読むと、決まって感じる世にも奇妙な高揚感。

何かに傷つけられたという覚えもないのに、妙に寂しくなって、意味もなく泣きたくなるような切ない気分もそこに加わります。

いったい、これってどういうことなんだろう、っと、毎回のように(長嶋有を読むと)思ってしまうのですが、これこそが長嶋有の作り出す世界の魔法です。

彼の作品世界では、これといったドラマも起こらない代わりに、何でもない日用雑貨や電化製品のことだったり、登場人物たちの本当に取るに足らないような会話や仕草、行為、飼い犬のちょっとだけクスリとするようなエピソード……などなど、とにかくそういう一見、ありふれた生活の描写が多く登場します。

退屈かと言えばそうではなく、不思議とどこを切りとって読んでも、変な面白さと新鮮味があります。

それらは主人公の視点からみた、生きた人間の手触りがするからでしょう。

誰でもが普段言葉にはしない(もしくは、出来ない)までも、感覚だけでは常に思っていたようなことを、さらりと的確に言語化していて、だからはっとさせられるんだと思います。

そこには、主人公や登場人物たちの微妙な心理描写も、折々投影されていて、はぐらかしているようで「核心」だったりすることを、混ぜ込み混ぜ込みされてるわけです。

だから、些細な日常風景の描写でも、そこにいる「人間」の内側が、言外に表現されていて、それらが複雑に積み重なってくるうち、目に見えないカタルシスがいつの間にか生まれていて、静かに読み手を感動させてくるんだと思います。

「じわじわくる」という感じでしょうか。

「じわじわ」は、かなり時間が経っても余韻として残ります。

最後に、言いそびれましたが、構成力の巧みさも、本作品の魅力の一つです。

物語がゆるくまったりと進んでいる間に、(やはり)いつのまにか登場人物の背景や人間関係、家屋敷や土地に関する諸々の情報など、舞台設定等が着実に積み上がっていて、バランスのいい塩梅で立体的に立ち上がってきます。いったん世界が立ち上がると、読者は安心してその世界でまったりくつろいで、笑いたいだけ笑って、泣きたければ泣いたりもできる。

そういう、どこか適当に「ほっとかれてる」感じもまたいいな、と思います。

 

【関連作品】

『ジャージの二人』(長嶋有)

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