ジャージの二人 (集英社文庫)

『ジャージの二人』

長嶋有(著)

(集英社)

 

 

 

2001年に『サイドカーに犬』第92回文學界新人賞を受賞し、同年に『猛スピードで母は』第126回芥川賞を受賞した長嶋有さんは、ブルボン小林という名前でコラムニストとしても活躍しています。

漫画やゲームに詳しく、雑学も豊富で電化製品にも詳しい。そんな彼の書く小説の世界には、一見なんでもない生活風景の描写が多く登場してきますが、誰でもが見飽きたくらい当たり前にある日常の「それ」を、独特な観察眼と思考力で、なんとなく「意外にも新鮮なそれ」へと転じて見せてくれたりします。

言葉のセンスが抜群なのは言うまでもないことですが、何よりも肝心なのは、常に独特な「ゆるさ」を根底に持ち込んでいることだと思います。

犬のおやつには「できれば亀田のソフトサラダせんべいがよい」としてみたり、「ELバックライト」という単語を普通に使っておきながら、「ELってなんだろう」と、後でふと自問してみたり、ジャージにネームされた小学校の名前の「和」の読み方をしぶとく考えてみたりしているところなんか、思わず読んでいるこちらの力をぐっと抜いてくる「ゆるさ」があります。

「ゆるさ」というのは、物事の遊びの部分であって、本来ならば装飾的な立場で、あくまでも作品の緊張感を落ち着かせるために、熱さまし的な要素で取り入れられて、つまり核心部とは別の「何か」であるところのものだと思うのですが、長嶋有の「ゆるさ」はどこか違っています。

私はむしろ、この「ゆるさ」こそが、長嶋有の作品の世界を支えている屋台骨なんではないか、と常々感じているのです。

これがしっかりと作品全体を支えているからこそ、その真逆にある世界の暗さだったり、抜き差しならぬ現実だったりの重たい部分が、相対する形で照らし出され、生きて浮かび上がってくる。それも、直接的な言葉ではなく、さりげなく、行間の中に、そっと。

この感覚の巧みさと、研ぎ澄まされた哀愁のようなものを体感することこそが、長嶋有の小説を読むだいご味ではないでしょうか。

『ジャージの二人』は、一風変わった父と息子(「僕」)が、5年ぶりに北軽井沢の山荘で夏の終わりを一緒に過ごすという話。

息子は既に成人していて結婚しているけど、妻は不倫中、自分は仕事を辞めていて収入ゼロ、目下小説家を志している、という中途半端でグダグダな状態にいます。父親はカメラマンで、「僕」の母親とは離婚していて、その後再婚し離婚し、再び再婚して現在は三人目の奥さんと娘がいて、夏の間は仕事をしないと決めていて、毎年山荘で過ごします。そこに、今年は「僕」が加わったのです。

「遅れてきた、大人の夏休み」という感じ。

夏休みなのに、どこかほろ苦く切ないような空気もありながら、やはり「家族」の物語りなんだなぁ、としみじみする、優しさと温もりと滑稽さに包まれています。

この作品は、堺雅人さん主演で映画化もされていて、そちらはまだ観てないので、今度ぜひ観てみようと思います(‘ω’)

なお、この話には『ジャージの三人』という続編もあって、『ジャージの二人』に、収録されています。