ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)

 

 

 

 

『ドグラ・マグラ』(上・下)

 夢野久作(著)

 角川文庫

 記憶を失い、自分のことが一切思い出せない青年(「私」)は、九州帝国大学の精神科病棟で目覚める。

何とか記憶を取り戻そうとする「私」の前に現れた、法医学教授の若林氏は、前任の精神病科教授だった正木氏が最近に亡くなった事情から、(「私」の)治療を引き継いだのだと説明をされる。

記憶を失くしているという状況と、精神科病棟で(自分が)目下治療中であるという話から、「私」は、自分が”狂人”であると認識するが、上手く事態を呑み込めない。何より、自分に関する記憶が全く取り戻せないのだ。

そんな状況下で、「私」は、前任の正木氏が生前に書き残した書類等を読まされ、正木氏が研究していた内容や思想にふれる。

それは、精神病患者の置かれている現状を嘆きうたった『キチガイ地獄外道祭文』や、胎児が母親の胎内にいる10か月に見る夢(数十億年分の進化を悪夢として見ているとする)について書かれた論文『胎児の夢』や、既存の精神病理学の根本を覆す『脳髄論』などである。

さらに「私」は、唐の時代から因縁を持つらしい奇妙な殺人事件のことを知り、やがて自分がそれに関わっているかもしれないことに思い至っていく。

しかも、一連の事件には、若林氏と(亡くなった)正木氏も少なからぬ関りを持っているようであり、その裏には学術追及に情熱を燃やす二人の学者の魂胆も見え隠れして、一層複雑な様相を醸している。

果たして事件の真相は? 

「私」が記憶を取り戻せは、自ずと明らかになりそうなのだが……!

あらすじを途中まで上に記しましたが、これを読んで、「ああ、そういう作品か」とすんなりと納得できる人がいるでしょうか。

いったい、どういう小説かは、このあらすじを読んでもよく分からないはずです。自分などは実際、一読してみても、まだまだよく分からないところが存分にあるくらいですから、要約するのも大変でした(汗)。

日本探偵小説三大奇書に数えられている本作は、怪奇で幻想性の高い作風で知られる夢野久作の代表作です。

1926年に『あやかしの鼓』で作家デビューした時から10年近くかけて(構想から入れるとそれ以上の年月を費やして)書き上げたもの。ちなみに、1935年に発表されていますが、その翌年に、夢野久作は亡くなっています。

三大奇書などと言われるだけあって、作品の構造から書かれている内容にいたっても、ありふれた探偵(推理)小説とは一線を画します。

一人称(「私」)の語りで始まって、同語りにて終わっていく話なのですが、間には精神科病院の現状を嘆いた阿保陀羅経や、高度な知識で構築された学術論文や、遺言書まで挿入され、またそれら以外にも文体や視点を変えたいくつかの展開が挿入され、これら全てが相乗的に絡まり合って、実に不気味で奇妙な物語世界を構築しています。

ラストまで読むと、犯人と事件の真相が一応は明らかにされたかのようですが、よくよく考えると、”「私」という記憶喪失の人間が、色々な情報を与えられて、考え考えした挙句、ようやくある一つの思考に辿り着いた”というだけなのであって、物語に隠された二重三重の罠が、「だけど、もっと別の真実もあるのでは?」とささやきかけてきます。

読んでいると、なんとなく蜘蛛の糸に捕らわれた虫にでもなった気分で、なんとかそこから抜け出したくても、容易にそれが出来ません。ここには、作者が仕掛けた巧妙な罠が存在しているんだと思います。

それは、語りであるところの「私」が、一切の記憶を失くしているせいで、なんとなく読者である自分と似たような立場に最初からいる――つまり、読者である自分は、この小説で描かれている事件のことも主人公の「私」に関することも、一切なにも知らないところから出発するのですが(読書とは、そもそもそういうものですよね)、これがすなわち狂人である「私」も全く同じ立場なので、読者は知らず知らずのうちに、「私」という人物と同化していき、同じ目線で物語世界をみてしまうからではないでしょうか。

そうして狂人である「私」と同様、様々な客観的資料や事実(だとされている出来事の詳細)を知らされていくうち、次第次第に狂気の足音が伝わってきます。

こうなると、もう物語の中心でもがき苦しむ一青年(「私」)と読者(「自分」)は、完全に融合してしまって、つまり蜘蛛の糸に捉えられてしまい、終わりまで、もがき続けるしかないわけです。本当に恐ろしい作品ですよね。

 

『ドグラ・マグラ』という作品が、精神病患者である大学生の書いた書物であるという説明を、若林氏が「私」にするくだりがあります。そのはじまりと終わりの文言が、そっくり本作と同じであることも、ある種のメタフィクション的な要素として作品をさらに不気味にしていると思います。

ちなみに、「ドグラ・マグラ」というのは(作品中での若林氏の説明によると)、どうやら長崎地方の方言で、維新前後までは切支丹伴天連の使う幻魔術のことを言い、その後、手品とかトリックなどの意味で使われるようになった廃語同様な言葉なのだということですが、それもどこまで信じていいのか分からない感じです。

ただ、とても不気味な響きのする言葉ですよね。私はなぜか、この『ドグラ・マグラ』という本の題名を最初に聞いた時、東洋のどこかの地域で伝わる密教の経典のようなものを想像してしまいました。

そして実際に読んでいくうちには、生物の進化と精神世界の秘密に触れることが出来たようで、そこに宇宙とか神とか、そういう大きなものの存在を感じました。